これは裏切りに等しい行為だと、彼女達は言うのだろう。一方は嘆くように。一方は、ある種の冷たさを声に宿して。

――――さあ、賭を、しよう。

 

 

 

灰色の夢

 

 

 

吸い込んだ空気を数秒、肺に溜める。続く私の言葉を待つ沢田綱吉は――かなり端折った意訳ではあるが――

『治療だか何だか、気にならない訳じゃないけどとにかく一刻も早く用事終わらせてさっさと離脱しろ』と、考えているだろう。

それは揺らがない。揺るがない。切れない切り札を用いでもしない限り。私がその事実を動かせないなら、……受け入れる他に道はないのだ。

 

 

「ええまあ、状況が状況ですしね。ある程度纏まった拘束も覚悟してます」

 

 

真面目くさった顔のままひとつ頷き、譲歩を重ねる。治療への協力はシャマルに約束した。

それを踏まえた上で、だらだらせず短期決戦一気に纏めて終わらせましょう、という意味合いの譲歩を。

サービスの大盤振る舞い、今までになく従順な態度を取ってみせた―――のが、悪かったのだろうか?

 

 

「………、ありがとう! えーと、着替えとかは届けたトランクに入ってたよね?」

 

 

沈黙は刹那のうちに。この機を逃すまいと彼が思ったかどうかは定かではないが、理解と同時に速攻でねじ込んできた判断力の高さにはもう閉口するしかない。

 

ボスはまるで全ての話がうまく纏まったかのように滑らかに話し出す。セキュリティが、身の安全が、情報漏えい防止が、云々。

抗争で皆忙しいから大変だし、色々考えるともう今日から始めちゃった方がいいよね!云々。

 

(って、は、今日から?!)

 

こちらが先に譲歩を口にした以上相手の提案に強くは出られないと踏んだか。

条件反射のように反発しそうになったのを堪えて、私が胆(はら)に呑み込んだもの。これから起こり得るだろうこと全てを天秤に掛けて。

 

賭けを、しようと思った。

 

 

 

三日間。ボンゴレ十代目がDr.シャマルに提示した“治療協力期間”――それが過ぎれば、

どんな状況であろうと私はここを去り、全て、つまりこの抗争が終わるまで例の患者に関わることは許されない。

私にというよりはシャマルに課せられた制限時間。私には動かせないタイムリミット。

 

ごぽり。水の中で空気が弾ける音をどこか遠くに聞きながら、私は夢うつつのまま目を閉じている。眠ってしまいたいような、……それがどこか怖いような。

“協力”はまだ始まったばかりだ。この施設を自由に闊歩するのは禁止されているが、ここと宛がわれた部屋、

そして給湯室をはじめとする幾つかの部屋には行き来してもいいと言われている。

しかし私はなるべく移動を控えて、中で働く人達には極力関わらないようにしようと思う。繋がりを作らない――そうする方がいいと判断した。

 

(……これから起こるだろうことを、思ったのなら?)

 

ひどい女だと我ながら思う。喧嘩を売られたのはボンゴレであって私じゃない。ここに勤めている人々はボンゴレ所属、ゆえに無関係とはいえない。

だからこちらに飛び火することがないように沈黙を守る。何が起こるか知っていて警告をしない。

 

研究者は決して戦闘員になれないことがわかっていて……そうやって、見捨てるのだろうか。

 

(わから、ない)

 

私は、私の目的の為だけに動いている。その上での今回の「協力」は、昔ならば考えられないほどの譲歩だった。

Dr.シャマルの優秀さを考えれば決して良い手であるとは言えないのに。

 

 

「――? ……寝たのか?」

 

 

これは賭けだった。タイムリミットが訪れる前に事が起これば私の勝ち。もし、何も起こらなかったら……

胸に渦巻く疑問疑念全てを押し込め、情報部情報処理部門第五班の一員として、またあの日常に戻る。

 

でも、と、私は薄れゆく意識の中で思った。ゾンビ男達の言う『フリツォーネ』が、私の思う『フリツォーネ』だとするならば。

 

(何も起こらないなんてありえない)

 

会ったことも関わったこともないけれど、その実力だけは、熟知している。

 

 

 

 

 

 

 

 

部屋の奥に備え付けられているベッドの上で身を起こした“彼女”――少女と言うには大人びていて、

女性と言うにはどこか未熟さを残している――は、事前に何の連絡もなく突然現れた獄寺と山本を目に留めると、驚いたように目を見開いた。

そして、ほんの少しだけ、口の端を上げ笑ってみせる。三浦ハル。こうしてまともに顔を合わせるのはいつぶりだろうか?

 

元々細い細いとは思っていたがそれよりも明らかに痩せた身体、目の下には隈が濃く刻まれている。

彼女のそのやつれようを見て、思わず息を呑んだ自分にやるせない苛立ちがこみ上げた。

 

 

「獄寺さんに、山本さんも。えっと、お見舞いに来てくれたんですか?」

「――――……チッ」

「はひ?! ちょっと、舌打ちってなんですかっ!」

「っるせーな、病人が騒ぐなっつの」

 

 

笑ってんじゃねぇよ、と。彼女の、今は少しも腫れてはいない瞼を見ながら聞こえないよう小声で吐き捨てた。

八つ当たり染みた響きが余計に気分を下げる。とはいえ少し安堵したのも事実だった。

 

もう、泣いてはいないようだった。彼女がここに移ってからの挙動は全て山本に流れている。獄寺もそれを通して彼女の様子を知っていた。

ハルは――移ったばかりの頃よりは幾分落ち着きを取り戻しているように見えた。

 

 

「随分痩せたよな。ハル、ちゃんと食べてるのか?」

「……は、い。あの、でも、あんまりお腹が空かなくて」

 

でも一日三食はきちんと守ってますから! と胸を張る彼女の首筋があまりにも細く、どこまでも穏やかに会話する二人から目を逸らした。

肝心な部分に触れまいとするかのように、日常を装っている。お互いに。

獄寺は二人から少し離れ、セキュリティ的に無いとはわかっているものの、部屋を一度ぐるりと見渡して異常がないか確かめた。

 

単なる時間稼ぎでしかないことは自覚している。ただ、獄寺にとってこれはひどく覚悟の要るものだった。多分、一生、口にする筈のないことだと思っていた。

普段の癖で煙草に手が伸び――箱の感触にはっとして手を戻す。ざまぁねぇな。自嘲と共に、息を吐いた。

 

 

「……ハル」

「はい?」

 

 

呼べば何の疑問も無く応える、声。

痛いことや辛いこと、悲しいことがあっても、結局最後には全て飲み込んで笑顔を浮かべる彼女の強さが羨ましかった。眩しいとさえ、思った。

この道に進んだことに後悔はない。何度選択する機会があっても獄寺はこの道へと辿りついたことだろう。

たとえその道を進む上で、様々なものを失うことになったとしても。

 

 

「最初は、高二の夏休みだった。覚えてるか? あの時皆でイタリア旅行に行ったよな。あー、……笹川達も連れて」

「え? あ、もちろん覚えてますよ! あんなに大勢で行ったの、本当に久しぶりでしたよね」

 

 

ディーノが渡航費滞在費を持つという話だった。ボンゴレの息の掛かったプライベートビーチ、街、レストラン。

途中でお約束のように襲撃に遭ったものの――中学時代のこともあり、そこまでひどいパニックにはならなかった。

ボンゴレ十代目と守護者達は敵を退け、結果オーライ、楽しい旅の続きに戻った、なんて陳腐なストーリー。

 

 

「でも、それがどう……」

「あれはお前らを囮にしたんだ。襲撃があることはわかってた。……わざと女を標的にするような胸糞わりー下衆共の」

 

 

もちろんそもそもの標的はボンゴレ十代目だった。だが、日常的に女子供を甚振って愉しんでいるその連中は標的の周囲に目をつけたのだ。

連中が作った“襲撃リスト”を目にしたとき、怒りで目の前が真っ赤になったのを覚えている。

 

 

「全部分かっていて、お前らを連れて行った。連中を誘い出すために情報を流してまで」

「そ……っでも、守ってくれたじゃないですか! 怪我をしたのは皆さんだけで、私達は何も……っ!」

「守るに決まってんだろ! そういうことじゃねーんだよ!」

 

 

決して彼女達を軽んじていたわけではない。大事だった。大切だった。それは嘘じゃない。

 

守ってくれたと彼女は言う。だが、彼女達を囮にしたという事実の前で、そのことはいったいどれほどの意味を持つだろう?

やがて時が過ぎ、二度三度と同じことが続けばどんどん感覚が麻痺していった。回数を重ねる度に、より効率の良い方へと思考が流れる。

自分が、隣に立つ友人が、人を殺すことに慣れていったように。

 

――だからこそ、わかる。

 

獄寺は覚悟を決めてハルの目をひたと見据えた。三浦ハルは少し前に殺人を犯した。仕事であり……責務だった。

ボンゴレファミリーにとって正しいことをした。故に、ファミリーの幹部である獄寺達は彼女に何を言うこともできない。

 

また、十代目が拳銃を与え、それを認めながら、それでも決してそれを使わないよう使うことにならないよう手を回したのも自分達だった。

十代目を支えたいという思いは自分達と決して変わらぬものだった筈なのに、それを重々承知していた筈なのに、勝手に幾つもの道を塞いだ。

故に、獄寺達は彼女を慰めることも責めることも励ますこともできない。その資格が、ない。

 

 

「……お前だけだとか、思うなよ」

「――獄寺、さん?」

「だから、お前だけじゃねえっつってんだ。人を殺したのも、……誰かを利用したのも」

 

 

パーティー会場爆破事件の、本当の顛末を知っている。その裏に何が隠されていたか、隠された計画の中にいったい誰の名前が書かれていたのか、

ハルが――たった数日の間でも、結果的に、それを見て見ぬ振りをしたこと。

安全を確保していたから、計画が頓挫していたから、そういった様々な理由を積み上げて自分を誤魔化したことを、知っている。

が無理にそうさせたとは思っていない。あれはハルも納得した上での隠蔽工作だっただろう。

 

――でも、だからこそ、わかっちまう。お前が何に苦しんでいるのか、なんて。

 

 

「お前だけじゃ、ねぇんだよ」

 

 

同じだ、と。それは獄寺が山本が他の仲間達が唯一、彼女に掛けられる言葉だった。

 

 

 

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