まだ早い。
彼女は何も、気づいていない。今は、まだ―――
黒い羊は永久を謳う -Hibari's Side-
笑いの衝動が収まった時には、もう既に部屋の前まで来ていた。
気付かれないよう、さっと中の気配を探る。・・・・取り敢えず侵入者等は見受けられない。
だが万が一という事もあったので、仕方なくの手を離し、先に部屋の中へと入った。
(・・・誰も居ない・・・、か?)
扉の前で躊躇うような素振りを見せる幼馴染。が、直ぐに足を踏み入れてくる。
完全に部屋に入る前に彼女を傷つけるような輩が居ないかどうか完璧に調べ上げなくてはならない。
部屋の中央、目の届くソファにを座らせ、死角になりそうな台所近辺にさり気なく移動する。
は辺りを物珍しそうに見回している。雲雀はそれを観察しながら目に付いた紅茶の缶を手に取った。
「何か・・・物凄く前衛的な壁紙があるんだけど。趣味?」
「・・・・直す暇がないだけだよ」
彼女は目敏く――否、明らかに目立ってはいたが――壁に残る銃弾の痕を見つけ出し、疑問を顔に浮かべる。
それは数日前、敵の襲撃を受けた痕である。深夜にこの部屋の窓から侵入され壁や寝室の扉までが犠牲になった。
襲撃者自体は難なく撃退できたものの・・・・いずれまた襲ってくるかもしれなかったので。
直す暇が無いというより、直しても無駄だろうというボスの意向で放っておいたのだ。
じっとその銃弾の痕を見つめ考え込む。雲雀は内心舌打ちをして、香り立つ紅茶をカップに注いだ。
(関るべきじゃない)
彼女を巻き込むわけには、いかない。
「・・・余計な情報は仕入れないのが生きる鉄則、じゃなかった」
「え、・・・紅茶・・・?」
思考の海から引き上げる為に、誤魔化すように紅茶を差し出す。何故か奇妙な顔をされた。
だがその壁の銃痕から意識を逸らせることには成功したらしく、はカップで手を暖めながら黙り込んだ。
ふ、と雲雀は顔を上げ扉の方にちらりと視線をやる。
近づく気配は慣れたもので、一瞬戦闘態勢に入りかけた自分を制した。
動く気にはなれず、の隣に座ったまま待っていると直ぐに控えめなノックが響いた。予想通りの声が聞こえる。
「ハルです。今いいですか?」
「開いてるよ」
「はい。それじゃ、失礼しますね」
先刻言っていた着替えとやらを持ってきたのだろう、手には大きい袋を抱えていた。
ハルはこちらを見向きもせず、入ってくるなりの方へ一直線に向かう。にこやかに話し掛け袋を差し出して。
それに応えるようにも立ち上がり二人で話し込む。違和感はない。
雲雀は何の気もなしにその光景を見つめていたのだが、就寝の挨拶を終えたハルが突然こちらに顔を向けて来た。
そして満面の笑みを浮かべて、ぼそりと低く呟く。
「恭弥さん、さん苛めないで下さいね」
「・・・・・・・・」
じゃなきゃ・・・、と続く言葉が聞こえた気がする。勿論幻聴だと分かっていたが。
きっ、とかなり強く睨みつけられ雲雀は一瞬怯んだ。
・・・・・・怯んだ自分に気づいて、かなり憮然とした。
ハルが出て行った後、を風呂へと追いやり、深い溜息を吐く。
疲れているわけではない。ただ、何処かやるせないような、もどかしい想いが心を支配していた。
普段の、つまりこの時代のに対するように今の彼女に接してはいけないのだと頭では分かっている。
それでも―――手を伸ばしそうになる自分が、居るのだ。
それがハルの言う“苛める”という事に繋がったとしても―――
雲雀はもう一度だけ深い深い溜息をつき、揺れた自分を誤魔化すように紅茶のカップを手に取った。
「よ、恭弥。今大丈夫か?」
扉の向こうでそんな声がしたのはが風呂に行ってから約十分後のこと。
気配もなく、ノックもせず、態々の気配が自分より遠いという事を確認してからの声掛け。
山本武だった。・・・・探るまでもない。開いてる、と先程と同じ返事を返せば、彼は物音一つ立てず部屋に入ってきた。
「・・・・で、何か用」
「ああ。これ、忘れてったろ?隼人の部下が何でか俺に届けに来た。相変わらず嫌われてんのな、お前」
そう言って武が差し出したのは一本のトンファーだった。「十年前」のを、止める為に投げたそれ。
正直、今の今まで頭になかった。予備があるとはいえ――必ず対として所持しておくべきものを。
その失態に雲雀は少なからず驚いた。・・・・動揺、していたのだろうか。だけでなく・・・自分も?
「回収し忘れるなんて、お前にしちゃ珍し」
「・・・・五月蝿いよ。用が終わったらさっさと出て行って欲しいんだけど」
「あー待て待て。あとひとつ」
今日の仕事についてだと彼は言った。が未来の自分の代わりにこなしてきた仕事の結果が出たらしい。
「結論から言うぜ。明日の夜、こっちから仕掛ける」
「情報部が連れ帰った連中は?」
「ビンゴだ。詳しくは明日説明するから―――ま、心積もりだけはしといてくれ」
「・・・成程、ね」
是、の意味を込めて手を振った。上手く行けば、明日中にはこの鬱陶しい戦いを漸く終わらせることが出来る。
何の異存もありはしない。・・・・その頃には、きっと『』だって帰ってきている。
「んじゃ、また明日。・・・“さん”、の事も宜しく頼むぜ?」
「君、誰に向かって言ってるわけ?」
「・・・・あ、言うまでもなかったか。悪ぃな」
そのまま『恭弥、頑張れよー』等と訳の分からないことを言いながら山本武は帰っていった。
またもや音も立てず閉ざされた扉を見やり、そして手の中のトンファーに視線を落とす。
宜しく頼む?護れ?
―――言われなくても。
「他の誰にも、護らせるつもりはないよ。僕は――」
ソファに座って一服、ただし周りへの警戒は怠らず。
偶に風呂場のほうへ意識を向けつつ、雲雀は冷めた紅茶を喉に流し込む。ちらりと時計に目をやった。
は随分長い時間、風呂に入っているようだった。普段はここまで長くはないはずだが・・・・・
まさかのぼせるような事はしない筈だと思いつつ、気にかかってしょうがない。
声でも掛けてみるかと腰を浮かしたその時だった。
小さくではあったが、風呂場のドアが開く音がした。動く気配も感じられる。・・・杞憂だったらしい。
無意識に小さく息を吐いて、再びソファに背を預けた。
そして、着替え終わったがこの部屋に入ってきたとき、雲雀は自然とそちらに目を向けた。
・・・・向けたことを、気まずさと共に心の底から後悔した。