執務室を出る時、ボスはこっそり私に囁いた。
「……俺からのお返し」 頑張って、と笑うのを堪えているような奇妙に歪んだ顔で。
―――何なんだ、一体。
黒い羊は永久を謳う
「じゃ、話は決まったね」
「頼むよ」
私の意志は。などと口を挟む隙も無いまま、そんな会話だけで話は打ち切られた。
恭弥はまた私の右腕を取って立ち上がり、ボスの毒気に中てられて呆然としていた私はハッとそれで我に返る。
何とか一言でも抗議しようと口を開いたがそれは言葉になることなく消えていった。
そして私達に釣られた様にハルも席を立ち、彼女は私ににっこりと笑いかけてくる。
「私は、さんの着替えを取りに行ってきます」
「…あ……ありがとう」
「部屋に持っていきますから、その間にお風呂で汗流して今日はゆっくり休んでくださいね!」
え、ゆっくり休める自信なんかないんだけど。絶対無理なんだけど。
それは切実な叫びだったが、勿論声に乗せる勇気はなく、私はただ黙って頷いた。
―――恭弥の部屋には何度か行った事がある。
良く言えば実用的、悪く言えば味気の無い殺風景な部屋だった。植物ひとつ置いていない。
もちろん未来のそれとは違うのだろう。しかし恭弥のことだ、趣味が早々に変わるとも思えなかった。
(その癖使ってる家具とかは超高級品なのよね。シンプルで使い勝手が良くて手触り最高の)
彼は特にソファで寝転ぶのが好きだからそれは絶対あるとして……花の一つでも置けばいいのに。
そうすればその辛気臭いというか、近づいたら咬み殺す的な雰囲気も多少改善されて取っ付き易くなるんじゃないか?
いやいや、恭弥にそんな甲斐性を求める方が間違ってるな。だから顔だけ強いだけの男に成り下がって………
私は意味も無く思考を走らせ、現実逃避を試みた。掴まれた場所を意識したくなくて。
(そういえば、恭弥って顔は良いし腕もあるから結構人気はあるのよね……破壊的な性格を別にすれば)
勿論だからといって安易に近づく者は居ない。どうなるかは一目瞭然だからである。
だが隠れファンは多いのだ。男も女も関係なく。………そのお陰で被害を受けたことも数え切れない。
(…………あ)
ふと。私はある考えが浮かんで、扉へ向かおうとしている幼馴染に尋ねかけてみた。
「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど」
「……何を?」
「もしかして、恭弥………結婚してるんじゃない?」
その瞬間、部屋の空気が凍ったことに私は気付かなかった。ただ奇妙な確信を持って私は恭弥を見上げる。
しかし視線の先で、彼は何を言われたのかわからないというように硬直していた。
力の抜けた恭弥の手から私が右腕を取り戻したことにも、全く注意を払う様子はない。
「……………は?」
数秒、いや数十秒が経って。そして漸く彼が発した言葉は、たった一文字だけだった。
私はとにかく反応が返ってきたことに安心して、更に畳み掛る。別に、と誤魔化されたのではたまらない。
「あー、結婚じゃなくても…そうね…恋人とか、この際愛人でも良いわ。居るんでしょう!」
(そう考えれば辻褄が合う気がするのよね。十年経ったからってあんな風に変わるのはおかしい。だって恭弥だし。
心身共に穏やかに変わったっていうなら、自分ひとりじゃ絶対無理。きっと女に違いない。三十代、いい歳してるわよ。
流石に十年あったら、幾ら恭弥でも物好きな女性を見つけることくらい出来るでしょうね。………うん、多分)
びしり、と指を突きつけ私はそう断言した。暫く待ったが、反論の声は無い。
………ふ、図星か。
「恭弥。今回は勅令って事で言い逃れ出来るかもしれないけど……ちゃんと考えないと駄目じゃない」
「…君何が言いたいわけ?」
「だからこういうの、これから気をつけたほうがいいと思うって言ってるの。いくら幼馴染だからって私は生物学上女だし。
何するとかしないとか関係なく、そういう所おざなりにしちゃ嫌われるわよ?」
「………………」
「誰だか知らないけど、恭弥のその破綻した性格と暴力的な行動についていける物好きで希少価値の高い女性なんだから。
大事にしたほうがいいんじゃない?最悪一生独り身になるわよ」
―――つまりは、だ。
恭弥にもめでたく恋人と言えるような存在が出来たんだから、何の躊躇いも無く幼馴染とはいえ別の女を自室に引き入れ
しかも一泊させるのは相手の女性に凄まじく失礼なことだろう、嫌われたくなかったらちゃんと慎めこの野郎。
といった趣旨の親切極まりない忠告もどきをしたかったのだが。
つい力が入ってしまったそれを終えどうだとばかりに恭弥を見やる。………すると、私は信じられないものを目撃した。
あの、恭弥が、雲雀恭弥が。
――――肩を震わせて笑っている……!!
しかも顔を背けて口を手で覆っているあたり、私を馬鹿にしているとしか思えない。
「そういうデリカシーの無い所もさっさと直した方が良いと思うけど!」
「………っ……」
「………あのね、」
笑い過ぎてか何も答えられない恭弥を見ていると、殴り倒したくなるのは気のせいだろうか。
私は更に言い募ろうとして口を開いたが、……それは後ろでごんっ、と響いた鈍い音に邪魔された。
(……ごん……?)
私が振り向いたそこには、何故か机に突っ伏している獄寺。腹をくの字に折って俯く山本。
ハルにいたっては私達に背を向ける形で床に蹲っている。
原因が私にあるとは全く考えず、一体どうしたのかと聞きかけた、――――その時。
「はい、さん。恭弥も…もう部屋に行ったほうが良いと思うよ」
ボスの声が響いたかと思うと、いきなり後ろから両肩を掴まれてぐるりと扉の方へ方向転換させられた。
そのまま背を押されて、出口へとどんどん追いやられる。
「あの、ボス?」
「今日はもう休んで。明日もゆっくりしていいけど、適当な時間に一度はここに顔出してね」
「……はい、あの、でも」
「大丈夫だから」
有無を言わさず、とはまさにこの事だ。私を押す手が少し震えているのが気になる。
だがあれよあれよと言う間に私は執務室の扉のところに着いていた。先に恭弥が出て、廊下に立って私を待っている。
そして流されるしかない混乱気味の私に、ボスは耳元で何事かを囁く。
え、と聞き返す前に、『頑張ってね』と手を振られ、廊下に押し出され扉を閉められてしまった。
答えを求めて恭弥を見たが、まだ笑っている。苦しそうな様子によほど蹴りを入れてやろうかと思ったが、反撃が問題だ。
(……ホントに何考えてるのかしら)
一度大きく溜息をついて、私は恭弥の案内にしたがって歩き出す。
―――閉じられた扉の向こうで、ボスと幹部達が思いっ切り爆笑していたことなんて。
私は、知る由も無かった。