知るのが、怖い。
黒い羊は永久を謳う
「ありが、とう」
「…………」
目を逸らしつつぼそっと呟いた私の頭に恭弥は無言で手を置いた。ぽんぽん、と慰めるように。
途端、急激な羞恥が私を襲う。反射的に顔を上げ恭弥の手を振り落とすと、ふっ、と目だけで笑われた。
……このままじゃ前言通り心臓麻痺で死ねる……!
私はあらぬ方を向いて誤魔化すように口を開いた。何とか、何とかしなければ。
「あー…私もう寝るから。疲れたし……このソファ貸してくれる?」
「別に、ここじゃなくてもベッド使ったら」
「え、二つあるの?」
(うわ……完璧同棲じゃないか?それ。その女性のベッド使うのってどうなんだろう…)
―――などと思っていたら。
「いや、ひとつしかないけど。それが?」
見事に、あっけなく。だからなに、と奴はさらりと流してくれた。
(それが?………だって……?)
「…………恭弥……」
「なに」
「っデリカシーの無さもここまで来ると重症ね!私の話聞いてた?その耳ちゃんと機能してる?」
「今ちゃんと会話してるけど」
「そういう問題じゃない。…あのね、私がベッド占領したら恭弥はどうするわけ?」
自分がソファで寝るから譲る、という選択肢は初めから頭に無いに違いなかった。それだけは断言できる。
「ああ…そういう事。大丈夫、サイズは大きいから」
「そういう問題でもない!だから…っ」
ああやっぱりと思いつつ、本当に分からないのか単に揶揄っているだけなのか。実際この恭弥なら後者も有り得る。
さて、このまま恭弥が私の家に押しかけてきた時と同じ様に、同じベッドで寝るとしよう。
あの時は流されたというか他に方法がなかったというか。つまり今と状況は全く違うわけで。
私はちゃんと睡眠を取れるだろうか?――――勿論、答えはNOだ。
ここでお前の所為だと恭弥を責める事は容易い。だが、そもそもの原因は私にあるのではないのか?
十年後の恭弥を苦手としているのは、私自身。それは私の気の持ちようで改善される筈だ。
……恭弥の恋人に悪いとか、そういうことはこの際宇宙の遥か彼方に放って置く。
(一晩、だけなら……大丈夫かも)
私は密かに決意を固め、恭弥を見上げた。
「わかった。じゃあ寝室ってどっち?」
「そっち。基本的に昔と間取りは変わらないよ」
指差された方に目を向ける。丁度ソファの所とは反対側に位置していて、先刻は目に入らなかったらしい。
……しかし。それを見た瞬間、私は固まった。
(まあここにも前衛的な装飾が。……じゃなくて)
「扉が半分無いようですが。恭弥さん?」
「……だから直す暇がないんだよ」
寝室と思われる部屋に続く扉。それは、無残にも上半分が無かった。文字通り、無かった。
ノブは無事なようで、鍵は多分かかるのだろうが……丸見えでドアの意味が無いような気がする。
私は多少興味を覚えてその部屋に近づいた。半壊した扉を面白半分で開閉させてみる。
「じゃ、中で適当に寝てていいから」
「…ん。そうさせてもらうわ…」
その言葉を切っ掛けに、私は意を決してその部屋に一歩足を踏み入れた。
一晩だけだから。一度寝てしまえば次は朝。恭弥は発熱する置物とでも思っておけばいい。
出来るだけ何も見ないようにと、私は電気を付けずにベッドまで歩いていく。殆ど物があるようには見えなかったが。
―――枕元に彼女との写真なんて置いてあったら多分変にダメージを受けそうだ。
「あ。結構気持ち良い、かも」
部屋の大部分を占める大きなベッドに触れる。暗闇の中でもそれは濃い色をしていた。
さらりと肌に心地良い布地に、思わず顔が綻んだ。……流石、家具には金をかける恭弥だけの事はある。
上着を着たままで良いのか分からなかったが、そのままベッドの上に乗り上げ、奥の方に移動した。
確かに、私の家のよりは大きい。キングとまではいかないが、クイーンサイズ位あるだろうか。
「はいはい勝手に占領させて頂きます、っと」
暗い色の布団を捲り、その中に体を滑り込ませた。これまた大きな枕に顔を埋める。
……ふわりと、懐かしい匂いがした。
これは、
(…恭弥、の)
匂い。
「――――……っっ!!」
がばっ、と大きな音を立てて私は起き上がった。そして間髪を入れずにベッドから離れる。
少しだけ躊躇した後、ばっとベッドに背を向けて恭弥の寝室から飛び出した。
心臓が常になくうるさい。私は凄く焦っていた。それは自覚している。……理由はわかりたくもない。
「、どうかしたの」
「………っ、恭弥」
私の慌てっぷりが珍しかったのだろうか、恭弥こそ十年後の彼にしては珍しく真剣な顔で私を覗き込んできた。
どうしようもなく湧き上がってくる衝動のままに、私は言葉を紡ぐ。―――混乱の所為か、意味を成さない言葉たち。
「……む、無理だから。やっぱり無理、出来ない」
「何が…?」
「悪いけど、私、ソファで寝る。ごめん、でも、無理だから実際、ホントに」
………あの空気は、駄目だ。
あの場所で眠る事は、私には、出来ない。無理だ。どうしても。
理屈じゃない。あの空気の中で、恭弥の傍で、眠る事は出来ない。理由なんかないけど、絶対にそう思う。
―――このときの私は、何かを畏れていた。何か、は、わかりたくもなかった。
恭弥は無言で私を置いて寝室へと入っていった。怒らせたのだろうか?いや、そんな気配はなかったはず。
それより私は自分を抑えることに精一杯で、ただ時が過ぎるのを待っていた。……喉の震えがいつまでも止まらないまま。
「これ、被らないと風邪引くよ」
「え……」
戻ってきた恭弥は、両手に掛け布団を持っていた。ソファで寝てもいい、ということだろうか。
驚いて彼を見ると、視線でソファに寝るよう促される。そりゃ、断る理由もないだろうけど。
それに従って横たわると、恭弥は優しく布団を掛けてくれる。いきなり妙な事を言った私に、何の文句も付けずに。
何故だろうか。それだけで自分が落ち着いてくるのがわかった。
「おやすみ、」
「………うん、おやすみ……」
恭弥は微かに笑って、踵を返した。……その後姿に少し、胸が詰まる。
恭弥の寝室で感じたものは、突き詰めない方がいい気がする。私の心の平穏の為にも。
遠くから流れてくる水音を聞きながら、私はゆっくりとまどろみの中に落ちていった。
不安な事ばかりだった日。突然色々な事に直面してしまった日。私の中に、知らない何かを、見つけてしまった日。
波乱の一夜ではあったが、私はかなり穏やかな気持ちになっていた。
――――次の日。
「……い、嫌がらせか。嫌がらせなんだな!」
知らぬ間に恭弥の寝室のベッドで、言い換えれば恭弥の隣で寝ていた事に気付き、乾いた悲鳴をあげるまでは。