何故ここに、という質問にハルは笑顔でこう答えた。
「だって、さんの切羽詰った悲鳴が聞こえたんです!」
…………いや、悲鳴じゃなくて呪詛だろう…………
黒い羊は永久を謳う
私はハルの出現により一気に頭が冷えた。これ以上醜態を晒したくなかった、というのもある。
一度恭弥を怨念の篭った目で睨みつけた後すぐにベッドから出て、洗面所のほうへ向かった。
「さん?」
「これ、着替えてくる」
「え、そんな――……」
名残惜しそうにハルが私を窺うが、そんなに惜しむなら自分で着たほうが良い。確実にボスだって喜ぶ。
この忌々しいネグリジェなど直ぐに脱ぎ捨ててしまいたい。それだけを思い仕切りのカーテンを引いた。
(……二十数年生きてきて、こんな屈辱っ……)
、人生最大の不覚。そう言ってもいいかもしれない。
私は昨日着ていた服に着替え、ついでに顔を洗って髪の毛を整えた。袋に入れた寝巻きを持って洗面所から出る。
すると、食欲をそそる香ばしい薫りとコーヒーの匂いがした。
「改めまして、お早うございますさん。朝ごはん出来てますよ!」
「……お、おはよう……?」
え、私洗面所で十分程度しか居なかったんだけど。
部屋の中央にあるテーブルには三人分の朝食が用意されていた。ホットサンドイッチのようである。
その早業に感心していると、ハルに腕を引かれて椅子に座るよう促された。まさに至れり尽くせり、だ。
「はい、ここに座ってくださいね」
「あ、うん。ありがとう」
そうこうしている内に恭弥がコーヒー三人分をトレイに乗せてこっちに持ってきた。
昨日といい今といい、本当に何で恭弥が給仕紛いの事をしているのだろう。しかも、多分、自発的に。
複雑な気持ちのまま差し出されたそれを受け取り、試しに一口飲んでみた。……やっぱり、美味しかった。
(……世も末だわ。まさかこんな……)
「では、頂きましょう!」
「…いただきます」
「………」
世界の行く末を儚んでいる間に、ハルは隣に、恭弥は私の正面に腰を下ろし朝食を食べ始めた。
それから食べ始めて暫くの間は無言のままだったが、粗方食事を終えコーヒータイムになった時にハルが口を開く。
「さん、今日の予定なんですけど」
「それ、私も気になってた」
「はい。基本的にはボンゴレからは出ない、ということでお願いしますね。移動できる範囲も限られてます」
「大丈夫。わかってるわ」
「すみません。なるべく一人にはならないで欲しいってお達しなので、午前中はツナさんの所に居てくれませんか?」
「ボス……?ええ、一度顔を見せるように言われてるし、構わないわよ」
その他細かい注意事項と共に、随時ボンゴレの指示に従う事等が挙げられた。
窮屈だと感じないわけではなかったが、状況が状況である。私はただ従うだけだ。異論はない。
承諾の意を彼女に伝え、その後暫くは雑談に時間を費やした。恭弥も大人しく話に加わってくれた。
その間私は少しハルを観察させてもらったのだが……あるものを、見つけてしまった。
薬指に光る、シンプルな、銀色の指輪。
(……結婚、してる……?)
誰と、なんて、聞くまでもないと思った。否、聞くまでもない相手であって欲しいと私は思っていた。
聞けば未来の情報だなんだと騒がれるだろうと思い、何も言わなかったけれど。
――それはとても、穏やかな時間だった。
ハルと共に食事の片付けをし、仕事があるという恭弥を見送って、少し馴染んだ部屋を出る。
そしてやって来たボンゴレ最上階ボス専用執務室の前で、私は一人立ち尽くしていた。
彼女はこの階に入った途端立ち止まり、またお昼に会いましょう、と言い残して去ってしまった。
(……十年後のボスって…更にこうパワーアップしているというか…)
開き直った感が否めないというか、きっと『現在』のボスと同じ様にはいかないのだろう。
取り敢えず目の前には扉がある。どうせ気付かれているのだろうから、躊躇いを見透かされるのは遠慮したい。
私はひとつ大きな大きな深呼吸をして、入室の許可を求めた。
入ると、正面にいつもの笑顔を浮かべたボスが座っている。
「おはよう、さん」
「おはようございます、ボス」
「よく眠れた?」
「ええ。おかげさまで、それはもう」
朝だからなのか分からないが、ボスは一人でそこに居た。嫌味な私の台詞にも全く動じた様子はない。
ボス専用の椅子に座っていた彼は、すっと立ち上がって昨日の様に私をソファへと誘う。
それから、淹れたてじゃなくて悪いけどと、紅茶まで出してくれた。おまけに茶菓子もだ。
………思いっ切り仕事する気なさげですか。ボス。
「どう、少しは……落ち着いたかな」
「多少は。でも、ある意味では余計混乱してます」
未来に来てしまったことに関して、もう動揺はない。心の中で折り合いはつけている。……だが。
雲雀恭弥。薄々と感じていたその存在のあまりの落差。私はそれをあの部屋で更に思い知る事になってしまった。
そうなるよう勧めたのがこの十年後ボスである事は間違いないのだ。『お返し』などと意味の分からない事を言って。
視線だけでその真意を問うが、ふわりと笑われてかわされた。
「………ボス」
「ごめんごめん。でもまあ……いずれ分かる事だし?」
「私には関係ないでしょう」
「…そうかな?」
恭弥が変わった原因は別の人間だろうから。私にわざわざ知らせる意味があったとは思えない。
そんな思いを込めての返答だったが、それもまたあっさりとスルーされてしまう。
「それよりも、さ。俺さんにずっと聞きたかった事があるんだ」
「………私に?」
うん、君に。
ボスはそう言って何かを懐かしむような笑みを浮かべた。