反射的に繰り出したナイフを、彼は避けなかった。
――動く事もなく、瞬きさえもせずに。
黒い羊は永久を謳う
これからの仕事、というのが殴り込みだとすると恭弥自身も武装しているはず。
防弾チョッキでも着ていたら厄介だと計算して剥き出しの首筋を狙った。
顔の横に置かれた手を退かせたい為だけに仕掛けた攻撃は、予想に反してあっさりと彼に届いた。
持ち前の素早さで以って、私は刺さるぎりぎり寸前で刃を止める。
………あと一ミリでも動かせば首の皮を切ってしまうだろう。
「どういうつもり…?」
「あと2秒」
「っ!?」
驚いて思わず刺しそうになってしまった。ああもう、危ない危ない。
この人真面目にカウントしてやがりますよ。五秒以内でどうとかいうの、どうやら本気だったようだ。
それにしても、急所にナイフがあるのにこの落ち着きよう。私が刺したらどうするつもりなのだろう。
………それとも、刺す事など出来ないと分かっているのだろうか。
「1秒」
私は凶器を引くタイミングを見つけられずにいた。
普段のように、ここで言うなら昔みたいに、トンファーを振り回してくれればどんなに楽だっただろう。
殺し合いすれすれの喧嘩もどきになって、お互い遠慮なく殴り合って、闘う。
それが、殆ど勝負とは言えない、一方的なものになったとしても。
―――この質問だって誤魔化してみせるのに。
「………ゼ」
「ストップ。目の前から退いてくれたら答えるわ」
「無理。退いたら逃げるでしょ」
「は?どこによ」
譲らない。譲れない。
傍から見れば随分滑稽だと思われるだろう格好で、私達は睨みあった。どちらも真剣そのものである。
ボスに対しては比較的あっさりと認めることが出来た。ここから出て行く事を。出て行かざるを得ないだろう事を。
頑張ると言ってみたところで、その事実だけは絶対変わらないと確信していた。
それを今、目の前の幼馴染に対して認めることが出来ないのは。
「…恭弥、まさか未だに根に持ってるわけ?」
「…………」
―――負い目があるからだ。
私達がまだ幼かった頃。不可抗力ではあったにせよ、彼に黙って姿を消したという、負い目が。
それを引き合いに出されてしまうと、私としては何も言えなくなってしまう。
(……でも、出て行くな、じゃないだけマシか……?)
こちらの事情を、多少考慮してくれているのだと解釈してもいいのだろう。
それにだ。この未来での“”はボンゴレに留まると決めたのだから、この恭弥には関係ないわけで。
きっと現在の恭弥に報告したらいつものように『ふぅん。そう』で済ましてくれるのだろう。
真っ先に報告すればいいだけだ。簡単じゃないか。
私は自分の中でそう折り合いをつけ、じっと大人しく返答を待っている恭弥を見上げた。
向けられている視線に、落ち着かないと同時に酷く安心しただなんて――言ってはやらないけれども。
「…わかった、わかりました。……恭弥に無断で消えたりしません」
「真っ先に」
「はいはい、真っ先に報告します!」
無表情かつ冷静に突っ込みを下さったものの、私の返答に満足したのか強張った空気が解ける。
……まあ恭弥の気持ちも分かるし。二度も黙って居なくなられたら目覚めが悪いだろう。
私自身、あんな思いは一度で充分だった。
「誓う?」
「そうね……じゃ、恭弥のトンファーに誓って」
「いつも思うけど、それ、何なの?」
「だって好きだし」
「……意味不明だよ」
「えぇ?」
未来に来て初めて、私達は緩やかに笑い合った。
私は爽やかな気分で凶器を恭弥の首から離し、服の中に仕舞いこむ。
―――この時間はもう終わるのだと、時計を見ずにも、分かっていた。
「じゃあ恭弥、とにかく手を―――」
「………」
退けてくれ、と頼む声は、恭弥の低い声に遮られる。
武器を仕舞いこんだ所為で伏せていた顔を上げると、何とも言えない表情にぶつかった。
硬い雰囲気の中に、切ないとも寂しいともとれる、複雑な色が覗く。
(こんな顔も、するんだ……)
私は無意識に手を伸ばしていた。頭には届かないので、そっと肩に触れる。
慰めるようにぽんぽんと叩くと、逆にその手を絡め取られてしまった。
「」
また、名を呼ばれる。
―――少しは、惜しんでくれているのだろうか。
まさかと心の中で打ち消しつつも、もう手を退けてくれと頼む気は起こらなかった。
……もう、帰るとき、よね。
そう思って私が身じろぎすると、それが分かったのだろう、彼が動いた。
恭弥は先程までの憂いた色を一瞬で消し去り、代わって挑戦的な笑みを浮かべたのだ。
見慣れているようで見慣れていない、……そんな笑顔に私は冷や汗が浮かぶのを感じた。
(ちょっと待て、あの穏やかな時間はどこへ行った!)
私は即座に身を引くが、所詮ソファの上。片手も捕まったまま。顔の横には恭弥の手。
目の前には―――酷く楽しそうな、幼馴染。
「、覚悟しておいた方が良いよ」
「な、何が?」
「多分本気でいくし」
「だから何がっ!」
喚く私を他所に、恭弥はじりじりと顔を寄せてくる。異常接近に惑い思わず顔を背けた私の、
「…誓い破ったら」
耳元で、そっと。
「―――咬み殺す、よ?」
ぞくりと、体が震えた。
普段と同じ台詞なのに、何故か違うと感じた。咄嗟の文句も出ない。
そんな無様な体を晒す私を、恭弥は笑った。
獲物を前にしたような―――愉悦の色を、隠しもせず、に。
はっと正気に返った瞬間、目の前が全て白い煙で覆われていく。
帰るのだ。私が生きていくべき所へ。
(……んの野郎、最後の最後で…っ!)
してやられた、と。
それが私の、最後の思考だった。