何がしたいんだお前は。
黒い羊は永久を謳う
ふ、と力を抜いた瞬間、喉の辺りに小さな痛みを覚え私は慌てて背筋を伸ばした。
……トンファーの仕込み鉤の部分が食い込んだのである。もう少しで血が出るところだった。
抗議の意味をこめて原因の男を睨みつけるが、極普通に見つめかえしてくるので始末が悪い。
私は仕方なく、この場で一番権力を持っているはずのボスに声を掛けた。
「ボス……ですよ、ね」
「うん。――……さん、いきなり飛ばされて来て混乱しちゃったよね。俺達この事すっかり忘れてて……」
「それはどうでもいいですからこの人まず何とかして下さい」
「え」
忘れてて、ってなに!?私がここでどれだけ大変な思いをしたと思ってる!
と即座に突っ込みたい所だったが、今はとにかく身に迫るこの危機から逃れることが先決だ。
私はボスの言葉をばしっと撥ね付け、ほぼ脅迫にも似た心持ちで懇願する。
「相も変わらず人の話全然聞かないし実際この体勢きついんです息しにくいんです動けないんです」
「あ…えぇと、恭弥。ほら…さんも苦しがってるし、放してあげなよ」
「……………」
すると恭弥は少し逡巡するような素振りを見せた後――――すっとトンファーを壁から引き抜いた。
かなり深くめり込んでいたようで、引き抜くと同時にぱらぱらと壁の破片が散る。
(何だかやけに素直ね…これも十年経っての変化ってこと…?)
へぇ、と半ば驚嘆してその行動を見守った。誰かの命令、もしくはお願いでさえも彼は素直に聞いた例がないはずだった。
十年間で漸く大人になったという事か。なるほど感心感心―――
「……なに」
「え、何が?」
―――等と頷いているとこれまた相変わらずな嗅覚で睨みつけてくるが、そこはそれ。
これ以上騒ぎになりたくないので抑えておく。流石十年後の恭弥と言うべきか、食い下がるような真似はしなかった。
結局、まあ渋々とではあるが恭弥は私を解放してくれたのだ。
「あ、やっぱりちょっと攣ったじゃない」
私はこれ幸いと豪快に割ってしまった硝子の破片を避けて彼から距離を取りつつ、
少し痺れた腕と、少し違和感がある首の辺りの柔軟をしながら移動する。
―――がしかし、丁度三歩程歩いた所でがっちりと右肘を掴まれた。誰にかは言うまでもない。
私は笑みが引き攣るのを隠すことも出来ずに、恭弥のほうへと振り向いた。
「あのね…私逃げない、って言ったはずだけど?」
「だったら窓には近づかないことだね」
「?どうして」
「あの“変な機械”で逃げられても困るし」
「っ……」
私は思わず己の足元に視線を落とした。あの日ビルを飛び降りる時にも使った機械…でも、何故それを恭弥が知っている?
これは私の切り札のひとつだった。たとえ幼馴染であったとしても軽々しく詳細を口にすることではない。
それにその発言にもボス達からは特に反応は無く、彼らが既にその事を知っているのが分かった。
一緒に飛び降りたハルだってこれには気付かなかったのだ。自分から言わない限り知られることはない、はず。
―――それ程までに私はここに馴染んでいるのか。曝け出せるほど。
(まさか。私が?そんなこと……信じられない)
私は振り向いた顔を意志の力を以って元に戻し、黙り込む。振り払うことは、考えなかった。
「――じゃ、改めて」
場が落ち着くのを見計らったかのようなタイミングで、ボスは静かに口を開いた。
「十年後へようこそ、さん。歓迎するよ」
「これといったもてなしとかできねーけど……ま、ゆっくりしていけよな!」
「何でも良いから壊すな!もう壊すなよ!!」
「…はあ、それはどうも有難うございま…」
ん?
ゆっくり?
「……ちなみにお尋ねしますが、私がいつ戻れるのか…ご存知、なんですか?」
「うーんとね、確か…丸一日はそのままだったと思うよ」
「丸一日!?」
げ、あと十数時間もこんな所に居なきゃいけないって?…ちょっとそれは流石に私の神経が持たない…ような気がする。
絶句した私を他所に、というか故意に無視されているのだろうか。やけにほのぼのと話は進む。
「取り敢えずこの部屋で立ち話もなんだし、上に行こうか。ハルも直ぐにこっちに戻って来てくれるって」
「おう。誰かにこの部屋片付けさせとくわ」
「武、総額も出すよう言っとけ。きっちりな!」
「はは、了解」
「…すみません、私の所為で余計な仕事を…」
私は別に後悔しているわけでも反省しているわけでもなかったが、礼儀上謝ることは忘れない。
結局被害を受けるのはこれを片付けさせられる下っ端だし。可哀想だとは思えど良心は痛まない。
賠償請求はされるかもしれないが、どうせ払うのは十年後の『私』であって、私ではないのだから。
「いいっていいって。今じゃこんなの日常茶飯事だからさ」
「……日常?」
「そ。日常」
にかっと爽やかに笑う山本にそう返され、何となく私は言葉が詰まった。
最高記録だの日常だの…一体どういうこと?そう言えば先刻から獄寺も喚いているし……
(恭弥の破壊行動は昔から変わってないとして。…もしかして私もその仲間入りしてるとか…?)
そんな馬鹿な。多少物は壊すかもしれないけど、こんな酷い状態には絶対にしない!
十年後とはいえまだそこまでの良識は残っていると――信じたい。いや、残っているはずだ。
内心何の保障もないフォローを誰にでもなく呟いていると、私はいきなり前方に引っ張られてたたらを踏んだ。
「……っ…ちょ、恭弥!?」
「ほら、行くよ」
「引っ張る前に声ぐらいかければ?!」
「君鈍すぎ。腕落ちた?」
「……………っ!」
(こいつ、絶対更に性格悪くなってやがる。人が今一番気にしていることをいけしゃあしゃあと…!)
ふと見やるとボス達は既に消えていた。先に上へ向かったのだろう。
恭弥もそれに続こうと、考え事をしている私の腕をしっかりと掴んだまま歩き出したのだ。
その気配にさえ気付けなかったこと、何故か上手く言葉が出てこないこと、その他様々な状況が私の頭を悩ませる。
必死で落ち着こうと深呼吸してみるものの、そのもやもやは消えず、逆に苛立つばかりだった。
私は引っ張られるままに歩いていた足を意図的に止めた。恭弥は直ぐに振り向いてくる。
「わざわざ引かれなくても歩けるから。手、離して」
「米俵になるのとどっちが良い?」
「は?」
(え、なに何でいきなり米俵?私そんな話してた?っていうかその単語日常で使う?しかもここイタリア…)
戸惑う私をナチュラルに無視した恭弥は右腕を掴んだ手はそのままに、残った手を腰に伸ばしてきた。
距離が近くなる。腰?いや、そのまま抱え込むように背中の方へ……
―――私は瞬時に理解した。
「いえ結構です歩きます!」
つまりは荷物みたいに肩に乗せられ運ばれるということだ。一瞬想像して寒くなった。有り得ない。
彼は私の言葉を聞くと直ぐに体勢を戻し、最初と同じ様に私の右腕を引っ張って歩き出した。
その時、ちらりと見えた横顔は確かに笑っていた。認めたくはないがどうやら私は揶揄われたらしい。
……こいつを今すぐ地中深くに埋めてやりたい……!