以前なら、そうは思わなかったのかもしれない。
でも、今は。・・・・・こんなちっぽけなプライドさえも、守っていたいから。
斯くして 嘘吐きな恋人達は
私と同じで、どちらかと言えばハルも、仕事は大切にする方だった。
己の能力が他の人間よりも劣っていることを充分理解し、その上で自分に出来ることをこなしていた。
その優しい性格が災いしてか、部下を大切に思うが故の軋轢も、多々あったようだけれども。
ただ―――ボンゴレに迷惑を掛けることだけは、酷く恐れていたように思う。
だからこそ、意外だった。
もうこの商談は纏まりかけていた。逆にこの事態を利用して相手に畳み掛けることも出来た。
私が“なかったこと”にしようとしているのを、知らない訳ではないだろうに。・・・・何故?
「――――、さん」
「ハル・・・」
もう一度、名を呼ばれた。押し殺した声の低さに、彼女の怒りが思った以上に深いことが分かる。
嗜めるつもりで声を上げるも、ハルは決して揺らがない。テーブル上の資料が手の中で乾いた音を立てた。
(確かに前回よりも悪質だし・・・怒りたいのは、私も同じだけど)
何かやらかすようなら息の根を止める、と勢い込んだのは事実。でも後日、この商談内容を見て気が変わった。
もし今回破談になるような羽目になったら、利益がなくなる処ではなく損害まで発生してしまう。
それだけは避けたかった。備品を壊すのとは訳が違う。私一人だけで、その損害の責任を負えないからだ。
「とにかく・・・・話の続きを始めませんか。こうしていても埒が明かないですし」
暴れるならば、それこそ時と場合と場所を考慮して―――そう、私が何度も恭弥を説得してきたように。
私がハルと無言の応酬をしていた間、男達は計算通りに事が運ばなくなったのに驚き、暫し呆然としていた。
一口飲ませただけで意識が朦朧とする、もしくは身体の自由を奪えると信じ切っていたのだろう。
こういう体質になってしまったこと自体は嫌な思い出だが、偶に役に立つこともあるので少々複雑ではある。
「次からは、喧嘩を売るなら相手を見てからにして下さいね」
「この人達は相手を見て、売ってきたんじゃないんですか」
「・・・・・ハル。もういいでしょう」
「良くないです。何が良いんですか?」
いや確かに何も良くないけど。相手の言っていることに苛立つのは本当だけど。
それでも前とは違って、怒りを抑えられた。相手の力量を考えずにまた喧嘩を売ってきた彼らに対して。
ここまで心穏やかに居られるのは自分でも不思議で。・・・・・何故かと考えて得た答えはひとつ。
―――ビアンキに乗せられて恭弥にちょっかいを掛けた、あの日。
あの日が全ての転機だったように思う。今まで微妙に噛み合っていなかった何かが、ぴったりと嵌ったような感覚。
寛容になった・・・・のとは少し違うかもしれない。
ただ、彼らの言葉が恭弥を何ら汚しはしないのだと気付いた時に、物事の見方が変わった。
(私への侮辱でしかないのなら、別に騒ぎ立てる必要も無い)
勿論今すぐ殴ってやりたいのは変わらないけれど―――――
「さあ、署名を。・・・この事に関しては私も、上には黙っておきますから」
「「・・・・・・・・・・・・・っ」」
「以前の時とは違って、物的証拠が残ってますしね」
どういう事情であれ、仕事に私情を挟むのは愚かしいことだった。二度と繰り返したくない。
私は上司であるハルを無視する形で話を進めた。彼女もまた、血が上っているだけだと思ったから。
二度私の名を呼んだだけで今は黙っているし、このまま押し切れると―――思って。
・・・いた、のに。
「さん、待って下さい。上司命令です」
「、え?」
上司命令。
その言葉に、私は動けなくなった。上司命令?そんな言葉、彼女から発せられたのは数回しかない。
慌てて隣に座る彼女に身体ごと向き直る。と同時に驚いた。
―――目が、完全に、据わっている。
「今、貴方達は私の部下を攻撃しました。私の目の前で」
「ハル・・・?あのね、今は大事な商談中・・・・」
「それはボンゴレ情報部を敵に回すということです!」
ばん、と大きな音がした。ハルが立ち上がりテーブルに両手を叩きつけたからである。
商談相手は勿論のこと、・・・・思わず私もびくっと肩を震わせて彼女を見上げるしか出来なかった。
ボンゴレ情報部主任、三浦ハルが怒る―――これは別に珍しくはない。しかし、しかしだ。
「この行為、断じて許せません!私達を馬鹿にするのもいい加減にしてください!」
未だ嘗て、ここまで切れるようなことがあったか?こんなに声を荒げて、相手を罵るようなことがあったか?
否。・・・・多分、それより先に私が怒っていたからだろう。性格的にも、荒事には向いてはいない。
私は滅多にない事態に動揺して、何とか激昂するハルを宥めようとして声を掛けた。
それが煽りになるとは知らずに。
「まあここは抑えて、ね?こちらの要求を呑んでもらうって事でひとつ、」
「じゃあ恭弥さんにこの事言っても良いんですね!」
え。
「はい?!っちょ、それとこれとは話が違う!」
予想の斜め上を行く返答を受けて私は更に混乱した。この上司は一体何を言ってるんだろう。
「ああもう、だったらボスにも言っても良いわけ!?」
「はひ、ツナさんは全然関係ないです―!」
「あるわ!」
「ないです!」
最早私達の頭の中に相手の存在はなかった。呆然とする男達を他所に、珍しい怒鳴りあいは続く。
何とかこの場を流して、なかったことにしようとする私と。そうはさせじと相手の責任を追及しようとするハルと。
本当にもう訳が分からなかった。暴走する私をハルが止めるのが普通でしょうが!
「どうしてさんは怒らないんですか!殺されかけたんですよ?」
「結局未遂だし――殺されるとか大袈裟。それにハルだって今回の商談が重要なこと位・・・・」
「・・・・・やっぱり、それが原因なんですね」
怒鳴りつつも落ち着き払った様子のハルは、まさに情報部主任としての貫禄が全身から滲み出ていた。
彼女はボンゴレ幹部の一人として、ずっと成長し続けてきたのだ。眼光は鋭く、私に反論を許さない。
「さん。これは私達だけの問題じゃありません、情報部の体面の問題でもあるんです。
こんな格下相手に取引自体を侮辱されて、舐められっぱなしじゃないですか!・・・・それに、」
気圧されて声も出ない相手を見据えて、ハルはきっぱりと言い切った。
「他の誰が許さなくても、――――私が許します!!」