ハルの地位は、その能力に対して―――あまりにも低い。
それは、彼女と共に働いた事のある人間なら、誰しも感じていたこと。
灰色の夢
昨日とは違って今日は自分の家に帰らず、私はハルの家から一人直接ボンゴレ本部へと出勤した。
少し考える時間が欲しかったからである。部長のこと、裏金こと、ハッカーの取引相手のこと。
(ボンゴレの資料に、素行調査とかもあればいいけど)
あの日、ハッカーを確保することしか考えていなかった私は、連中を一瞥しただけで攻撃に移った。
二言三言―――喋ったか喋らないか。訳の分からぬまま眠りの中に落とされて、彼らは何を思っただろう。
(もし、本当にボス側の人間だったなら・・・・?)
物思いに耽りつつ、静かな廊下を一人歩く。朝早い所為か人通りは殆どない。
あれだけ騒然としていたのが嘘のように、ボンゴレ本部はその落ち着きを取り戻していた。
結局、替えの効く人間しか死んでいないということ。損害などほぼ無いのと同じだということ。
だからやはり、犯人は第三者では有り得ない筈―――――
今まで何度も浮かんだ思考を自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返していた、まさにその時。
「あの・・・・九班のさん、・・・ですか?」
「・・はい・・・?」
後方から、今にも消えそうに小さく、遠慮がちな声。
驚いて振り向くと―――そこには若い女性が一人、所在無さ気に立っていた。
就業開始時間ぎりぎりになってから漸く、私は執務室へと足を伸ばした。
朝一でと言われていたものの、とにかく彼らとの会話は一分一秒でも短く済ませたかったからである。
ボスは分刻みで予定が組まれているだろうから、勿論それを見越してのこと。
「ああ、おはよう。今日はさんが一番乗りだね」
「おはようございます。・・・あの、失礼ですけど、ボスお一人ですか」
「は、はは・・・Dr.シャマル、二日酔いで寝坊したってさっき連絡が」
「・・・・・・・・・・・・・・」
人の肝臓心配する前に自分の酒癖治せよ。こっちは早起きして今は顔合わせたくないボスと二人きりだっつの。
とまあ、些か口には出せない暴言を呆れ顔の下に隠しつつ。私達はお互い何かを誤魔化すように笑い合う。
その様子に怒ってはいないだろう、と彼の機嫌がそう悪くないことを確認して、私は謝罪の為に口を開いた。
「ボス、・・・・昨日は本当に申し訳ありませんでした。私・・・少し焦っていたみたいで」
「っ、さん・・・」
「それから資料ありがとうございます。助かりました」
「いやこっちこそ、ありがとう。ちゃんと裏付けが取れて嬉しいよ。手間も省けたしね」
そう言うとボスは疲れたように溜息を吐く。当然だ。自らを裏切った部下の話など聞きたくはないだろう。
たとえそれが、殆ど面識のない下っ端構成員だったとしても――――
「それで他の資料も、見せて頂けるんですか?」
「そのつもりだよ。外部に漏れるのは避けたいから、昨日は控えてもらったんだけど」
交流が無かったのなら、彼らの人間性をボスに聞いても無駄である。私はさっさと資料の方に話を逸らした。
するとボスは少し笑って机の中から資料らしき紙の束を取り出し、こちらに寄越してくれる。
「ここにはコピーしかないけど、本物が見たいならいつでも言って?リボーンに用意させるから」
「あ、それはどうもお手数を・・・・」
「二日目にしてもう捜査が行き詰っててね。出来ればさんの意見も聞かせて欲しいし」
「・・・・ボンゴレ上層部に分からないことが、私に分かるとは思えませんけど」
「え、そうかな?」
「そうですよ」
「またまた」
気持ちの悪い空気が、執務室を覆う。お互いがお互い気付かれないように腹の探り合いをしている。
いや、気付いていることを悟られないように、だ。何も気付いていないと、自らをも騙しながら。
・・・・・私は、ボスであるこの沢田綱吉に対しての不信感をどうしても拭えなかった。
ボンゴレ情報部情報処理部門第五班班長。
執務室に来る前、第九班の部屋に向かう途中で私を呼び止めたのはハルの元上司だった。
事件の所為だろう、やつれきって青い顔をしていたけれど、いつか二人で親しげに歩いているのを見たことがある。
どうやらハルを心配していたらしいが―――事件で部下を数人失ったと聞いて、とても声を掛けられなかったという。
そこで偶然第九班所属の私を見かけて、いつも話を聞いていたから思わず呼び止めてしまった、と。
『・・・そう、ですか。ハル、元気になったんだ・・・』
軽く近況を告げて大丈夫だと答えると、その女性は目を潤ませて何度も頷いていた。とても・・・いい人、だった。
たった一人で情報部に、でも人間関係には恵まれていたらしい。もしくは、そういう班をボスが選んだのだろうか。
あまりにも安堵した様子を見せるので、時間が余っていることもあり、私は暫くその五班班長と会話を続けた。
その中で浮かんできた、ひとつの事実。
ボスの態度を見ていれば既に分かり切っていたことではあったけれども。
『あの子が班長に昇進したって聞いて、私本当に嬉しかった・・・。やっと認めてもらえたんだって』
『これからなのに、なのにどうしてこんな事に―――』
辛そうに言葉を震わせる女性を見ながら、ひとつの単語が耳に引っかかった。やっと。・・・やっと?
そのニュアンスでは、本来はもっと早く認められる筈なのにいつまでも認められなかった、という風に聞こえる。
私はある確信を以って、悲嘆に暮れるハルの元上司に向かって、そっと問いかけた。
『あの・・・“やっと”、ってどういう意味ですか?』
それに返ってきた、周囲を憚るように、遠慮がちに、紡がれる答えは。
「あ、そうだ。悪いんだけど、Dr.シャマルが来るまで奥の部屋に居てくれないかな?資料を持っていっていいから」
「誰か―――来るんですか?」
“狸の化かし合い”・・・もしこのやり取りを見ていた人間が居たら、そう言うかもしれない。
何処かしら微妙な空気が流れるのも無視して、私達は他愛のない会話を編んでいく。各々の思惑を隠したまま。
「彼が遅れた所為でスケジュールを調整しなくちゃいけなくてね。時間があるから修理をお願いしてるんだ」
「修理・・・?」
「そう。さんが壊した、屋上の扉の」
「っ、・・・・・・・・・・・すみません」
「やだな、責めてる訳じゃないんだからさ。謝らないで」
ボンゴレの下っ端。彼らには、幹部とは違い、表社会の会社と同じ昇進制度が採られている。
情報処理部門も然り、班員から班長へ、班長から代表へ、代表から部長へ。それぞれに昇進試験が存在する。
『能力的にもっと早く昇進しても良かったくらい。でもあの子東洋出身だから・・・・色々、あったんじゃないかしら』
そうやって試験を受けるよう周囲がハルに勧めても、いつも有耶無耶になって話が立ち消えたという。
多分、きっと。いや、絶対それを妨害したのはボスだ。東洋系は関係ない。沢田綱吉、本人だろう。
ハルの努力を間近で見ている自分にとって、それは非常に聞き捨てならないことだった。