―――あ、お帰りなさい!
――よ。お疲れ――
・・・、お茶・・・飲む?―――
声が、聞こえない。
灰色の夢
無人の部屋。カーテンは閉め切られ、その隙間から辛うじて太陽の光が差し込む。
今日ハルは昼から出勤することになっているので、そこに誰もいないことは分かっていた。
―――そう、痛いほど分かっていたのに―――私は横たわる静寂に思わず足を止めた。
(・・・ここ、こんなに、広かった?)
爆破事件から、もう二日目になる。この部屋に足を運んだのも一度や二度ではない。
なのに今日になって何故こんな感情を覚えるのか。幾分落ち着いた今だからこそ、そう感じるのだろうか。
そこでふと、気付く。
事件のあった次の日には、ハルが先に来ていた。部長のことを聞かされて慌てていたのもある。
考えなければならないことが幾らでもあったから、違和感を直視せずに済んだ。
今朝は部屋に行く前に五班班長に呼び止められ、話し込んでしまった。そして部屋に寄らず執務室に向かったのだ。
だから―――なのだろう。
私は今、一人だ。傍にハルは居ない。今すぐ答えを出さなければならないことも、ない。
・・・・耳に残る声は、こんなにも鮮やかに思い出せるのに。
あの日の状態のまま手付かずの机や残された彼らの所有物から、もう目を逸らすことは出来なかった。
自分の椅子に座り、遮光カーテンの所為で薄暗い部屋を見渡す。
カルロ、アレッシア、ジュリオ。
命を落とした三人の内、事件に最も深い関わりがあるのはアレッシアだ。
二人とは違い、最後に一目会うことさえ許されはしなかった。彼女は一体階下で何を見たのだろう。
そして――――誰に、殺されたのか。
(あいつは、見ていたはずよ・・・)
会場に居ながら殺戮を免れ、今も尚沈黙を保ったままのうのうと生きているあの男。
情報部情報処理部門、情報通信部門、情報システム部門を束ねる――――『部長』。
絶対に調べなくてはならない。事件に関わる重要な何かを隠しているのだから。
私が初めて彼に会ったのは、ボンゴレに入ってから丁度一週間が経ったころ。
ハルに何かと嫌味たらしく突っかかっているのを目撃して、酷く嫌な気分になったのを覚えている。
それでもああいう人間はどこにでもいる。ハルも慣れているのか、大人しく黙って聞いていた。
部長が、東洋人を嫌う理由。・・・それは、新しいボスが日本出身だからという下らないもの。
そのとばっちりを受けるハルはたまったものではないだろう。
西洋人が多い中、東洋、しかもボスと同じ出身国である彼女は格好のターゲットにされていた。
「というか、これって何のフォローもしなかったボスのせいよね」
私の要望に応える形で新たに設置された班。しかし実質設置する必要があったかどうか?答えはNOだ。
今まで八班という数でそれなりに上手くやって来たのだから。人手不足だったという話は聞かない。
つまり傍から見れば、特に深い理由もなく設置された班ということになる。
ハルを知っている人間は、まだいい。彼女の能力が班長を務めるに値するものだと知っているから。
だが他の人間はどうだろう?そう、例を挙げるならこの嫌味部長の場合。
『部長』という役職は、地位的に低くはない。接触できるのは班長まで。班員ならば直接話をすることもない。
ある日突然、いきなり班長にまで上り詰めた日本人。しかも既存の班ではない新たなものが作られた。
さしたる理由もなく。昇進テストが行われる時期でもないのに。
(そもそも東洋人嫌いである彼が、不愉快に思わないわけがない)
不満を感じる人間がいることに、考えが回らなかったのだろうか。大したことはないと思っていたのだろうか。
「だからといって、こちらから泣きつけば他にも敵を作りかねないし・・・」
それこそ贔屓だと言われてしまうだろう。
自分の力だけでのし上がらなければならない以上、絶対にしてはいけないことだ。
今の所は、嫌味や雑用を押し付けられるだけなので我慢は出来る。
出来るが、ボスがもっとちゃんとしておけばマシだったんじゃないかと思わないでもない。
―――ハルがパーティーに出席するよう言われることも、なかったかもしれないのだ。
過去の仮定に意味はないけれど。ひとつ文句を言いたくなるのも仕方がないと思う。
「まあ、とにかく!何とかして怪しまれず近づく方法を考えなきゃね」
言葉で己を鼓舞しつつ。私は椅子から立ち上がり、カーテンを開けるべく窓の方へ移動した。
・・・・・そろそろ上司が出勤してくる時間だ。
「おはようございます、さん!」
「もう昼だけどね。おはよう、ハル。朝からお疲れさま」
ハルの元気一杯な声が響く。それだけで澱んでいた空気が浄化されるような気がした。
私より長い時間この部屋で独り過ごしただろう彼女は―――とっくの昔に、あんな思いをしたのだろう。
それを気付かせることなく、今まで笑ってくれていた。私まで落ち込んでしまわないように。
だから私も笑うのだ。少しでも、あの三人がいないことの穴埋めになるように。
「はひー、生き返ります。途中で渋滞に巻き込まれちゃって大変でした」
「うわ・・・。確かバスで行ったのよね」
「ええ、でも座れなくて。これなら最初から車で行くべきでした・・・」
「ハル運転出来たの?」
「もちろん免許持ってますよ!ほら、女の嗜みですから!」
「そ、そう・・・・?」
何ともない会話を交わしつつ、ハルが落ち着くのを待つ。
昨日の夜、自分も何かしたいという彼女の強い言葉に動かされ、必死に考えて出した答え。
それはハルに『南支部へ行き、取引相手の事件前の動向を探ってもらう』こと。
私と違い、彼女は今まで何度も南支部を訪れている。取引相手たちの他にも比較的仲の良い人間がいるという。
全く見知らぬ私が聞き込みをするより、ハルの方が適任だと判断した。
――――彼らをシロだと信じるなら、まずそれを証明しなければならない。
やってくれるかと問いかけた私に、迷いなく頷いたその姿は、非常に心強いものだった。
「それで、何か分かった?初日だからあまり無理は、」
「さん」
「・・・・なに?」
その時と同じ光を宿した目で、決意も露にハルは言う。
「ハルは皆を信じてます。何が出ても、信じてますから。それだけは変わりませんから」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「だから絶対に、庇うための嘘は言いません」
―――絶対に。
繰り返される言葉は、痛みを覚えるほど。