手帳を持って、暫く俯いていたハルが微かに肩を震わせ始めた。
―――泣いているのだと、思った。
灰色の夢
「しかし、随分いきなりだな」
ビニールに入った黒い手帳を片手に下げ、少年は皮肉気に笑う。
その探るような視線を真正面から受け止めつつ、私も笑顔を浮かべて肩を竦めた。
「お手数おかけしました。でも、状況が状況ですし―――」
「情報部の奴らも渋ってたぞ?説得するのに苦労したんだからな、お前が責任取れ」
「何ですかそれ。用意してくれるって最初に言ったのはボスなんですけど」
「関係ねえな。―――あの酒奢れば許してやる」
「………お、横暴……」
私より稼ぎが良いくせに、と内心思いながら、手帳を取ってきてくれたことは感謝しているので文句は言えない。
事実、大変だったのだろう。調査は既に終わったはずの証拠を、再調査でなく持ち出すのは。
(だからこそ、のリボーン登用ってこと?)
死神相手に逆らう気概がある人間など、幹部以上にしか存在しない。その光景を想像しただけで寒気がする。
とにかく今回は一時間で返すことを条件に、管理者が上には内密で貸し出してくれたのだという。
………その管理者には多少同情の念を覚えないではないが。
「まあまあリボーン。時間がないんだから報酬交渉は後にしてさ」
「いえいっそ止めて欲しいんですけど」
「まずハルからでいいな。おい、大丈夫か?」
「あ、は、はいっ!リボーンちゃん、ありがとうございます」
報酬に関する私の精一杯の抵抗は華麗に無視され、リボーンは薄い手袋とともに手帳をハルに渡した。
受け取るその一瞬、確かに顔が歪む。本人のものだと、見ただけで分かったのか。
気を使ってかボスたちは何も言わず、私も黙ったまま、彼女が手を伸ばすのを見守っていた。
「………で?」
そっと、静かに。
私にしか聞こえないような音で掛けられた声は、予想の範囲内だった。
ハルを気遣わしげに見ているボスは、頬杖をついたままこちらに注意を払う様子もない。
それを確認してから私は声の主へと振り返った。少年は近くの壁に凭れてこちらの答えを待っている。
「何がですか。報酬の件でしたら―――」
「何か、分かったんじゃないのか」
「…………………」
「。お前も動いているんだろう?」
ほんの数秒だけ、私から視線を合わせる。言葉の真意を探るために。
Dr.シャマルに会った時、爆発物の情報をもぎ取ったことも彼は既に知っているだろう。
私だけが動いていると思われているのならば、今、隠すことは逆効果だ。
「……確かに、犯人を知りたいとは思ってますけどね。仕事の邪魔をされた訳ですし」
全身に張り巡らされた神経を研ぎ澄ませる。相手の呼吸、体温、僅かな挙動さえも読み取ろうとするかのように。
右目が見えなくなったあの日から、私の感覚は少しおかしくなっている。
電波を感じるなどと言ったのも正確には違う。脳のどこかが勝手に感知するのである。
多分、盲目の人間が代わりに聴覚を発達させるというのと同じような状態なのかもしれない。
(どこまで、気付いているか――――)
私は内緒話をするように、数歩リボーンへと近づいた。視覚など感覚のひとつに過ぎない。
例え相手が百戦錬磨の殺し屋だったとしても――実際通用するかどうかは別として――試す必要はある。
これが私の、情報屋『Xi』としての戦い方だから。
「それに。…あの三人に対して、思うところもあります」
「…………報復か」
「お好きなように解釈してください。ああでも、今の所は足踏み状態ですけどね」
確実な情報が、あまりにも少なくて―――
そこまで言って息を止めた。そして再び目を合わせて、薄く自嘲する、……ように見せた。
私の言葉に対して彼がどんな感情を抱いたか。疑念、同情、納得?―――きっとそのどれにも当て嵌まらない。
しかしはっきりと感じるのは、リボーンの意識が私にしか向いていないということ。
彼は応酬される言葉の中で一度だけハルの方を見やったが、すぐに小さく息を吐いて目を逸らした。
(もし少しでも彼女の動きに気付いていたなら、もっと違う態度をとる筈)
数秒もない時間、かの鋭い目線はなりを潜めていた。彼なら怪しいと思えば誰でも容赦はせず問い詰めるだろう。
少年のマークにハルは入っていない―――そう判断した私は、軽く緊張を解いてにやりと笑う。
「勿論諦めるつもりはありませんけど。ボンゴレだって、大きい組織にしては捜査が進んでないというか」
「ほほう。つまり俺達が無能だと言いたいわけだな」
「え、違うん――――ごめんなさい。冗談ですからその銃下ろしてください」
「奢るな?」
「はい喜んで!」
私は憮然とした表情を作って、リボーンに背を向けた。上手くかわせた、と思いたい。
わざと、物凄く痛いであろう図星を突いて、会話を無理やり終わらせたのだ。
ボスもリボーンも普段より苛立っていることは簡単に読み取れた。だからこその暴言なわけだが。
(……あのお酒、めちゃくちゃ高いんだけど、ね)
金で解決出来るなら安いと思うべきなのか。些か早まったことをしたかと思いながらハルの方へと体を向けた。
「――――――――」
ハル、と声を掛けようとして、ボスの強い視線に押しとどまる。
リボーンに声を掛けられた時から彼女の姿勢は変わらない。ソファに座って、俯いたまま手帳を見ている。
それでも唯一違うのは、その細い肩が小刻みに震えていたこと。
(………泣いて、る?)
自分が立っている場所からは、彼女の表情が見えない。涙が零れているかどうかさえ。
しかし、私は違和感を覚えた。だってハルは言ったのだ、何があっても彼らのことを信じている、と。
恩人であり友人である彼らの死を受け入れたはず。そして、彼らの罪さえも受け止めたはず。
その手帳を見ることで事実を再確認したから?現実だと思ったから?だから震えていると?
違う、私達はもうそんな段階ではない。昨日二人で話した時に確信したのだ。乗り越えたのだ、と。
(では、何故――――)
ボスの気遣う視線など無視して確かめればいいのに、言葉が喉から出てこない。
私は少しも気付かなかった。いや、気付けなかった。
――――ハルの震えが、悲しみからではなく怒りから来ていたことに。