ハル。

 

お願いだから、戻ってきて。

 

 

灰色の夢

 

 

 

小さな音を立てて、ハルは手元の黒い手帳を閉じた。その次に手袋を外して机に置く。・・・言葉は、ない。

その動作に驚いて『もういいのか』と問おうとしたボスを遮るかのように、彼女は俯いたまま立ち上がる。

 

 

 

「――――――――」

 

 

 

ごめんなさい、と微かに聞こえた。

そう認識する前に、私達の間を通り抜けてハルは執務室から出て行ってしまった。

 

突然のことだった。

 

あまりにも突然すぎて、ボスもリボーンも、はたまた私も、口をぽかんと開けて見送ることしか出来なかった。

 

 

ごめんなさい、と彼女は言った。それは一体誰に対する謝罪だったのだろう?

 

 

 

「・・・・・・ショック、だったのかな。やっぱり」

「安易に資料を送るからだぞ、ツナ。お前の所為だ」

「なっ・・・!そんな、まさか南支部と付き合いがあるとは思わないだろ?!」

「何を今更。こっちに来た当初はハルの交友関係も把握してたじゃねぇか」

「あれはただ、イタリアに来て直ぐだったから心配で――――」

 

 

 

後ろで不毛な会話を続ける二人。一方で私はハルが去った扉と例の手帳とを何度も見比べていた。

正直、予想外の反応だった。あまりにも激しいというか、拒絶しているともとれる行動。

 

 

(それとも、そうするだけの何か、があったということ?)

 

 

心情的には今すぐハルを追いかけたい。心配だったし、何があったか、どうしたのかと聞きたい。

でも今は手帳を見ることを優先させるべきだと思った。もし今日を逃したら、多分二度と見れなくなる。

 

ハルが何かを掴んだにしろ、そうでないにしろ、そうでないとすれば尚更目を通さなければならない。

 

 

 

「辛いかもしれないけど、事実は事実だから。・・・仕方ないよ」

「今度はもっと慎重に行動するんだな。“ドン・ボンゴレ”」

「っ、その嫌味な呼び方すんなって言って―――あれ、さん?」

 

 

 

私はさっきまでハルが座っていた場所に腰を下ろしていた。そして放置されたままの手袋を身につける。

調査済みとはいえ容疑を固めた重要な証拠品である。指紋をつけるなどして汚されたくはないのだろう。

 

ハルを追いかけないのか。そんな意味を込められたであろうボスの呼び掛けはスルーしておく。

 

第一、言わなくても分かるはずなのだ。

 

 

“友人が重犯罪者である証拠を見せられた”彼女には、どんな慰めの言葉も意味を持たない、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そっと、慎重に、問題の手帳を持ち上げる。さして高級そうでもない、何の変哲もないそれ。

しかし長年使用されているのか、かなりボロボロであることは見て取れた。単に扱いが悪いだけなのかもしれないが。

 

 

(・・・・・・・・・・・・・この中、に)

 

 

ひとつ深呼吸をして、最初のページに手を掛ける。

問題となった記述があるのは後半だったが、逸ることはないと自分に言い聞かせた。

 

あまりそちら側に固執して、興味本位であるという言い訳を少しでも揺らがせたくなくて。

 

 

――――と、数枚進んだところで思わず私は眉を顰めた。

 

 

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・何これ」

 

 

 

無意識のうちにぼそりと本音を口にしていた。いや本当に、何これ、に尽きる。

 

走り書きばかりの凄まじく汚い文字の数々。間違ったであろう箇所は不精にも黒く塗りつぶされていて。

ページごと破り取った跡もあちこちに見られ、持ち主の杜撰な性格がありありと手に取るように分かる。

 

几帳面を自負している己にとってこれは―――見ているだけで頭痛がするようなものだった。

 

 

(も、もしかしたらワザとなのかも。一応情報部だし、これならぱっと見ボンゴレ所属とは思えないというか)

 

 

何のためとも思えない言い訳を並べつつ、少しでも解読してみようと努力してみる。

しかし中には完全に意味が取れない文章もあった。字が汚すぎる所為なのかと溜息を吐いて愚痴を零す。

 

 

 

「・・・情報部の人、よくコレ解読出来ましたね」

「え?ああ、そういうプロっているんだよ。暗号じゃなくて、崩れた字専門の人」

「そうなんですか?それは・・・」

 

 

 

凄いですね、と些か心にもないことを呟こうとした私は、続けられた言葉に口を閉ざした。

 

 

 

「滅多にないことだから、ボンゴレにも一人しかいないけどね。今は―――南支部所属だったっけ?」

「プロとはいえ、それだけで食っていけるほど仕事がねえからな。副業扱いだ」

「もう二十年以上ずっとその人だよね。そういえば彼女、なんか凄い渾名がついてなかった?」

「―――ああ、そういやそうだな」

 

 

 

じわりと、予感が胸に広がる。自然と手帳を持つ手に力が入り、私は気付かれないよう顔を伏せた。

だから、か。ページを捲る手を止めずにそう思う。だから、“彼女”は家宅捜索のことを知っていたのか。

 

 

(つまり私が奥の部屋で見せて貰った、手帳の内容に関する資料を書いたのは)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『シチリアの地獄耳』――――。

 

 

ボスとリボーン、二人が同時に言ったその渾名は昨日散々私達が話題にした人のもの。

顔も知らぬあの“おばさん”が手帳解読という形でこの事件に関わっていたなら、全て辻褄が合う。

 

幹部以上しか知らぬ筈の、取引事件やその容疑者が誰であるかを知っていたことなど。

 

ひとつの疑問が解消したところで、私は顔を上げないまま再び手帳に目をやった。

 

 

―――――だから?それで、だから、なにが変わる?

 

 

開いている今のページでもう最後だ。次からは白紙が続いている。

この部分が解読対象なのだろうが、特に妙なところは見当たらない。今までと同じ、汚い走り書きが一面を覆っている。

私でも辛うじて読み取れる場所は一行か二行。他はミミズがのた打ち回る様子にしか見えない。それほど酷いものだった。

 

この部分を解読したら、あの資料の内容になるというだけだ。結局手帳には新たな証拠など見当たらなかった。

 

 

(でも・・・それなら何故、ハルは逃げるように出て行ったのか)

 

 

逃げる?何から?―――もしくは、この部屋にいる誰か、から―――?

ふと浮かんだ考えに少し説得力があるような気がして、私はそっと手帳から視線を上げた。

 

すると丁度こちらを見ていたらしいボスとばっちり目が合う。・・・もしかしてずっと見られていたのだろうか。

 

 

 

「あの、ボス。何か?」

「え。い、いやさん、凄く熱心だなと思って」

「熱心というか・・・あまりにも汚い字なので読み辛いだけですよ」

 

 

 

下手に出つつ反応を窺い、嘘だとも本当だとも言えない微妙な答えを返しておく。

すると何を思ったのかボスは数秒沈黙し、やがて静かな声で、恐ろしいくらい真剣に問いかけてきた。

 

 

 

「そんなに捕まえたい?犯人のこと」

「・・・・・・・・。仰る意味が、よく」

さんが―――あの三人のことに心を痛めてるのは分かってる。それは当然のことだし、犯人を探す上で

君の力が必要な時だってあるかもしれない。・・・・・でも、情報屋『Xi』は、君一人なんだ」

 

 

 

牽制の意味を込めた言葉を遮り、一瞬あたかもこちらの身を案じているのかと勘違いするような台詞が投げられる。

明らかに非難の色を浮かべた瞳がなければそう思っただろう。声音だけは酷く静かなものだった。

 

 

 

「それだけは、理解しておいて欲しい―――」

 

 

 

情報屋『Xi』の調査に、“彼女”を巻き込むな、と。若きボスはそう言いたいのだ。

 

 

 

(この人、ハルが居ないからって遠慮なく殺気垂れ流してるんですけど――?!)

 

 

 

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