そうかもしれないと、頭のどこかで思っていた。
(驚くべきことではない。けれど――――)
灰色の夢
ハルは半ば引き千切るように回線を抜き、そして直ぐパソコンの電源を落とした。
相手に悟られかけたのだろうか。それとも、目的の情報を手に入れられたからか。
唯一の光源が消え、完全な暗闇が訪れた部屋の中。俯いたまま動かない彼女に私はそっと声を掛ける。
「……終わった?」
「っ!」
びくり、と面白い位に肩が跳ねた。しかし予想していたあの独特の口癖は聞こえてこない。
静かに見守っていると、ハルは何かに耐えるように両手を握りしめ。やがてゆっくりとした動作でこちらに振り向き。
―――――涙を、零した。
「……、…さん」
驚いて駆け寄ろうとした私は、彼女の呼びかけに足を止めた。止めざるを得なかった。
合わせた視線から感じ取れるもの。その声から隠しきれず滲み出てくるもの。
リボーンをどう対処するかに意識が集中していたためか、執務室では気付けなかった。
「えっと、…もしかして、怒ってる……の?ハル」
「………あ、あ…当たり前、ですっ…!あんな、の、見せられ、て……!」
「あんなの、って言っても―――」
筆記体、と言えば聞こえはいいのだろうが、そんな綺麗なものではなかった。いっそ暗号だと言われたほうが納得する。
「私には壊滅的に下手な落書きにしか、見えなかったんだけど?」
というか、解読すら出来なかったし。と、ハルの勢いに圧されながら何とか言葉を紡ぐ。
彼女の瞳に浮かぶ怒りは相当なもので、その上涙が更なる迫力を加えている。ボスとは違う意味で、怖い。
(だからあの手帳のどこに、そんな怒る要素があったわけ?!)
そのはっきりとした理由が分からない限り話が進まない。そう判断した私は困惑しつつ口を開いた。
「あのね、ハル。頼むから、何でそんなに怒ってるのか説明してくれない?」
「――― …… 、です」
「?待って、よく聞こえな――」
ハルは、流れ出る涙を拭おうともせずに。火傷しそうに熱くて強い感情を込めて。
その言葉を、血を吐くように押し出した。
「…っ部長です!あのひとが全部仕切ってたんです!!」
耳に入ってきた音が、脳全体に浸透するまで優に数秒は掛った。意味を理解するにも更に数秒を要した。
しかし理解しても体は動かず、彼女がただ叫ぶのを聞くことしかできない。
「でもってアレッシアを殺したのも部長なんです!絶対そうです、間違いないですっ!!」
(…………なにを、言って)
「例の取引だって、きっと皆に命令したんです」
(いま、彼女は、なにを)
「全部全部、あの人の所為なんですよ―――!」
(――――部長?)
ハルは呆然と立ち尽くした私の両腕を引っ張って、そのまま床に座らせる。抵抗する気は起らなかった。
丁度影になって見えていなかったが、周囲には何故か紙が散乱していた。他にもファイルと―――あれは、写真?
よく目を凝らすと、それらは先日私がボスから貰った資料であることがわかる。
一体いつの間に?いや、そんなことより手帳のことや、ハッキングの方が重要だ。
詳しい説明が欲しい。そんな私の思いを知ってか知らずか、促すよりも前にハルは語り始めた。
………抑えきれない激情と隠し切れない悲哀を、その瞳に宿して。
「“おばさん”の言ってた意味が、……分かりました」
「ハル―――」
「さん。手帳の字、あまりに酷いと思いませんでしたか」
「………それは、まあ」
汚い字専門とかいう妙に胡散臭いプロにかからないと、正確に解読できないくらいだからね。
そう返すと、彼女は我が意を得たりとでも言いたげに頷いた。わざとなんですよ、と付け加えて。
「わざと?」
「はい。あ、彼の字がどうしようもなく汚いのは本当ですけど」
「元から汚いのか……。ってわざとじゃないの?」
「わざと、それを直す気がないってことです」
「ハル。全然意味が分かりません」
(元々壊滅的に汚くてそれを直す気がないだけなら、わざとも何もない気がするんだけど)
頭の中に疑問が浮かぶが、決して苛立ちには変わらない。私はそれ以上喋らずに上司の返答を待つ。
ハルは――時折涙を零しながらも、すぐ拭って思考を巡らせている。混乱しているようには見えなかった。
「誰が見ても汚い字に、暗号を隠すんだって言ってました。重要な情報ほど、ちゃんと暗号にして隠す。
葉っぱを隠すなら森の中、でしたっけ?あれですよ。だから絶対綺麗に書いたりしないそうです。
万が一調べられても、意味不明な文章は“汚すぎて解読できない”だけだって思わせるように」
「…………えーと」
「はひー、上手く説明出来ません。ごめんなさいです」
何となく。何となくだけれども、言いたいことはわかるような気がする。
手帳に何が書いてあるのか?そんなこと、その持ち主にさえ分かればいいのだ。どんなに汚い字であったとしても。
まあ細かいことは置いといて、つまりは―――あの汚すぎる文章の中に、何か暗号があったってこと?
「でも、そんなこと資料には一切書かれてなかったわよ?しかも文章はプロに解読されてるのに」
「そうですね、さん。そう………だからこそ、です」
そこでハルは一度言葉を切り、電源の切れたパソコンへと視線をやった。
「だから、調べてみました。自分なりに出した答えが正しいかどうか、確かめたくて」
「ハッキングを?」
「ええ。情報部へ、少し」
その黒い画面に触れながら。彼女は意を決したように顔をあげ、こちらを見据える。
床に座り込む私達。それを取り囲むように散乱した資料。照明の消えた部屋の中で、絡み合う視線。
「ハルの考えを聞いてくれますか。出来れば、最後まで」
「愚問もいいところね、ハル?第一部下の名が泣くっての」
「さん―――」
その時今日初めて、彼女は笑みを見せた。笑みらしきもの、と言ったほうが正しいかもしれないが。
床の冷たさを感じながら、私はハルが近くにあった紙に何か文章を書き始めるのを見ていた。
「結論から言いますね。これは、あの手帳の中に書かれていた一文です」
(……造語…?文節は、イタリア語そのもの……)
確かに、この文字列を崩しに崩したものが手帳に書かれていた―――ように、思う。
場所は―――そうだ、最後。白紙に行く直前のページに書かれていた。どうにも読めなくて流したもの。
「資料には、勿論書かれていませんでした。あ、勝手に見ちゃったんですけど!」
「駄目ならこの部屋に放置して行ったりしないから。安心して」
「はい。………えと、それで、ですね。意味は」
ターゲットとの合流。密談開始の合図。移動場所。取引の段取り。
メモリースティックを受け取った後の一時解散。
(文章の位置的には、その後。データの中身を確認する前に?)
「“部長に報告すること”、――――です」