誰にだって、止められはしない。
灰色の夢
『シチリアの地獄耳』に会いに行ったハルから寄越された電話の内容が、“金を貸してくれ”。
辛うじて爆笑することだけは堪えたものの、肩が震えてしまう。彼女の泣きそうな声が余計笑いを誘うのだ。
しかしこれは喜ぶべきことだった。私は最初の段階を超えられたことを悟り、安堵の気持ちで、また笑った。
金を貸してくれということは、金を要求されたということだ。証言を拒否された訳では―――ない。
『もう、さん!人が真剣に頼んでるのに、笑いごとじゃあないですってば!』
「あ、ごめん。つい。いきなりだったから驚いちゃって」
『………。……声、まだ震えてますけど』
「だからごめんってば。――で、それは現金で要求されてるの?」
『はひ?ええと、ちょっと待ってください!』
声の遠ざかる気配がした。もしかしたらおばさんを前にして電話をかけてきているのだろうか。
私は廊下の壁に身を凭せかけて、南支部にいるであろうハルのことを思う。
(しっかしまあ、予想通りというかなんというか)
断られる可能性のほうが遙かに高かったにしろ、もし受け入れてくれるとなればそういう要求はあるだろうと思っていた。
手帳の情報を得た時もそれなりの値段を引っ張っていかれたのだから、今回はその数倍と考えてもいい。
こういう時にこそ、守銭奴と言われつつ貯め込んだ私の財産に物を言わせるべきだ。
(私は、お金なら多少の工面はつけられるけど――――)
どういう経緯で交渉出来たのかは分からないが、やはりハルにしか出来ないことだったのだろう。
『あの、さん?』
「どうだった?キャッシュで払えって?」
『いえそれが、払えるんなら何でもいいけど無理なんでしょ、って言われちゃいました』
「あら、そう。じゃ話は早いわね。今朝渡した封筒ちゃんと持ってる?」
『?はい。それはもちろん――――』
「中に記入済みの小切手を数種類入れてあるから、好きな銀行の選んでもらって。後は適当によろしく」
『え、……えぇっ?!そんな何時の間に!!』
「企業秘密」
懐かしいやりとりを交わしながら。幾らかかってもいいけど情報だけはきっちりね、と念を押して。
これで彼女は心配いらないだろう、と未だに電話の向こうで騒いでいる上司に別れを告げた。
失敗するかもしれないなどとは微塵も思わなかった。
―――さて。むしろ気を引き締めなければならないのは私の方である。
私は目の前にそびえ立つ人事部の扉をちらりと見やった。中にはまだあの四人が待ち構えている。
電話が掛ってきた直後はまだしも、続く会話を聞かれるわけにはいかなかったので直ぐに部屋を出たのだ。
ええそれはもう思いっ切り見られまくりましたとも。超不審気な視線がびしばし突き刺さりましたとも。
「………まあ、何とかなるか?」
携帯をポケットにしまいながら、自然とそんな言葉が口をついた。楽観的なと誰かに笑われるかもしれない。
ただ、ハルからの電話で力が抜けたというか。逆にやる気が湧いてきたというか。
超直感を持つボスが居ないのだ。リボーンは読心術なるものを使えるとはいえ、今は負ける気がしない。
今朝呼び出しを食らった時とは全く違う気分で、私は意気揚々とその扉に手をかけた。
「―――誰からだ?」
すみません、お待たせしました。そう言いつつ戻った私に、まず最初に掛けられたリボーンの声。
この少年がここにいるのは、もしかして私を見張っているからだろうか。ふとそんな疑問が浮かぶ。
よく考えれば昨日も。手帳のことがあったとはいえ、何か分かったのか――と。そう、問いかけてきたのだから。
こちらが事件について調べていることなどお見通し、といった表情で。
爆発物の資料を貰ったから、というだけではなさそうだった。単に長年の勘がそう思わせているのか、…それとも?
(まあ、私としてはハルのことさえ知られなければいいんだけど、ね)
『―――お金貸してくださいぃっ!!』
彼女のことを思った途端、頭の中で音声がリピート再生されて私はまた吹き出した。
「………おい、ふざけてんのか?撃つぞ」
「いえ、……っ、ハルですよ。財布忘れたらしくて、……SOSかけられました」
いきなり悲壮な声でお金貸してくださいって叫ばれたら何事かと思いますよね?と真実を練り込んで話す。
すると僅かに張りつめていた空気が緩んだのを感じた。―――全くこれだから幹部共は信用できない。
「今朝偶然小切手渡しておいて良かったです。あ、小切手使える店だったってことも」
「………つか、んな事で驚かせてんじゃねぇよ…」
「え、驚いたんですか?」
「アホかっ!いきなりお前が笑い出すからだろ?!」
「それはハルに言ってもらえませんか。泣きそうな声で無銭飲食がどうとか」
下手すりゃ逮捕ですからね。笑えませんよね。あ、でもある意味笑える気がするんですけど。
右後ろの辺りで恭弥が深々とした溜息を吐くのが聞こえる。山本は苦笑しているし、獄寺は言わずもがな。
そしてリボーンは……甘いか。確かにこの程度の話題で誤魔化せるはずもない。最初から分かっている。
下手に彼の知りたいことから話を逸らしすぎると、余計疑惑の念を強めてしまうかもしれない。
(こういう時は、―――食いつくが勝ち!)
「山本さん、あの、ひとつお願いがあるんですけど」
「え?あ、ああ。どうした?」
「その掃除屋の資料ください。ちょっと気になることがあるので」
少しばかり強い口調で言い切る。もっとも、連中のちゃんとした資料が欲しいのは本当だった。
渡された資料に書いてあった“殺し専門の掃除屋”という単語を見たとき、微かに記憶に引っかかるものを感じた。
多分『Xi』のデータベースにあるだろう。調べれば資料そのものは作れるかもしれないが、時間は無駄に出来ない。
「気になること、か?」
「ええ。漠然としすぎてて今は何とも。証拠がないことは言いたくありません」
「おっまえ、ホントいい加減だな」
「妙な推測だけ披露した挙句間違ってたら責任取れませんって」
「もしかして、単に情報集めたいだけなんじゃないの」
「待てコラ。人を情報マニアみたいに言わないでくれる?」
「それ、情報屋の君が言う台詞?」
「…さん。手伝ってくれるのは…正直、ありがたいんだけどな?」
「―――――手伝う?」
即座に飛んだリボーンの詮索をかわし、呆れた声を上げる獄寺に肩を竦め、恭弥の嫌味にはしっかりと反論して。
その後苦笑と共に続けられた山本の言葉を、わざとらしく繰り返す。薄く、薄く、笑みを浮かべて。
ありがたいんだけど、の先。何を言われるにしろ、否定的なものであるのは明白だった。
「私はただ、―――犯人を引きずり出したいだけですよ」
そして闇の底へと。