思えば私達は、ここで一度立ち止まってみるべきだったのかもしれない。
灰色の夢
扉の閉まる音がやけに重く響き、暫しの沈黙が部屋に流れた。微妙な空気が肌に痛い。
数秒の後、やれやれといった様子で溜息を吐いた雲雀がまず口を開く。
「―――綱吉が、に嫌味言ったんだって?」
「嫌味といや嫌味だが、正直八つ当たりみたいなもんだろ。山本、タイミングが悪かったな」
「は、はは……や、まあ、いいんだけどさ。俺は別に」
「…………嘘つけ」
固く閉ざされた扉を見ながら、殺気とはいかないまでも、それなりの気迫を向けてきたの姿を思い出す。
あの瞬間。先程まで朗らかに笑っていた彼女の突然の変化に驚いて、山本は思わず硬直してしまった。
その隙には返してきた筈の資料をすっと手に取り、コピーであることを確かめるような仕草をして、
薄ら寒い笑顔のままさっさと鞄にしまい込んだ。実にその間五秒足らず。誰も口を挟めなかった。
―――また何かありましたらご連絡ください、と言って出ていく彼女をどうやって引き留めろと?
「それより雲雀、良かったのか?もうさんにこれ以上資料は渡さないつもりだったんだろ?」
「……今は何を言っても無駄みたいだからね。最初に焚きつけたのは君じゃないの、リボーン」
「俺に振るな。煽ったのはあのダメツナだ」
「知らないよそんなこと」
「まあまあ。その辺にしとけって、な?」
獄寺が電話を掛けた後。どこから聞きつけたのか突然やって来た雲雀に、きっと要求してくるから渡すな、と頼まれた。
よく分からないが事情があるのだろうと引き受けたのは良かったが。
(……押し切られちまったのな。なんつーか、必死だったし。機嫌も悪かったというか)
本当に駄目なら雲雀が力ずくでも止めただろうから、これでいいのかもしれない。山本はそう自分に言い聞かせる。
「ま、流石にどっかで暴れるような真似はしねえだろ。犯人挙げるのが最優先みてーだし」
単にお前がそう思いたいだけなんじゃないのか、それ。
という獄寺への突っ込みは、何となく自分にも跳ね返ってきそうなのでやめておいた。
ほんの一週間ぶりだというのに、もう何か月も行ってないような気がするから不思議なものだった。
開店前の静かな路地裏を通ってその扉に手をかける。まあ、開店後でも全く変わりはしないのだけれど。
「お久しぶりです、マスター。お元気でしたか?」
カウンターに座り一人侘しく酒を呷っている店主を見つけ、私は緩く微笑んだ。
「うぉあっ?!………………………っと、なんだか、脅かすな。準備中の看板見えなかったか」
「ああ、あえて見ませんでした」
「何の為の看板だ!くそ、お前…ほんっとに相変わらずだな…」
「え、一週間で人間変わったら怖くありませんか?」
ひどく疲れたように眉間を抑える彼の姿が少し憔悴しているように見えて、私は内心首を傾げた。
そのくせ、じっとこちらを見つめたりしては大きな溜息を吐く。疑問を込めて向けた視線は低い声に遮られた。
「……。ふん。昼は食ったのか」
「ええ少し前に―――、……マスター?」
「そこ座れ。適当に飲み物くれてやる」
ハルと来る時は必ず個室になるため、カウンターは久々だった。促されるまま、“いつもの”席に腰を下ろす。
少し待っていると私の一番好きなカクテルが目の前に置かれた。――まだ日の高いうちから酒を飲めと?
「酒屋に来といて酒飲まずに帰るってか?そりゃねえだろ」
「一応、今就業時間中なんですけどね」
「ほほー。じゃそんな時間にお前は何やってんだろうなあ?」
「………頂きます」
全く聞く耳をもたないマスター。どうやらこれを飲むまで私の話を聞いてくれる気はなさそうだった。
まあ、ただ遊びに来たわけではないことなどとっくに気付かれているだろう。
ここに来た、その目的。私はカクテルを口に運びつつ、人事部から出てきた後のことを思い返していた。
「……あの暇人幹部共め」
山本から強奪、もとい快く渡してもらった掃除屋の資料を机に置いて、私はぼそりと呟いた。
あれは絶対に監視してるな。特にリボーン、今日あの部屋に居る必然性が全くない。余計な事をしてくれるものである。
(もしボスの差し金だとしたら厄介よね。…やっぱり、一秒でも早く終わらせないと)
私は資料の隣にある私用のパソコンを立ち上げ、『Xi』のデータベースに入る準備に取り掛かった。
今から調べるのはもちろん掃除屋のことである。資料が手に入ったので大分時間の節約になるのが嬉しい。
しかもそこに情報があるということは、直接的にしろ間接的にしろ、私と何らかの関わりがあったはずだった。
(それさえ思い出せば、何とか―――ならない、かな)
キーボードを叩きながら私は考える。少し前に連絡があって、ハルが戻ってくるにはまだまだ時間がかかるらしい。
だから今のうちに終わらせておかなければ。まだ爆発物に関する調査には手をつけてすらいないのだから。
複雑に入り組んだ構造にすることを優先して作ったため、迅速さに課題が残るのが難点である。
『Xi』のサーバーに入り込み情報を検索し始めてから数分が経過したころ、漸く目的の情報が画面に並べられていく。
文字で埋められていく画面の中ほどで見つけたその言葉に、私は驚いて目を見開いた。
「――――マスター?」
(つまりあの掃除屋の情報を最初に教えてくれたのは、マスターだったのよね)
私がまだ『Xi』としても新米の情報屋だった頃。この店主は何かと私のことを気にかけてくれていた。
あの地下道の存在を教えてくれたのも彼だし、思い返せばかなり助けられていたのだと思う。
ちゃっかり二杯目をリクエストしつつ、私はゆっくりと事情を説明する。
「殺し専門の……ああ、そういやいたな。数年前に代替わりして質が落ちたっていう」
「代替わり……」
「で、何が欲しいんだ?」
「彼らの顧客情報です。ここ数年分の」
マスターは知っていることはとことん知っているし、知らないことは全く知らない、いわゆる変人である。
掃除屋を知っているならばそれに関するどんな情報でも出してくれるだろう。彼に、その気があればの話だが。
そしてもちろん、そこに部長の名があるとは期待していない。ただ部長に繋がる何かがあればと思うだけ。
「また危ねえことに首突っ込んでやがるのか」
「危ないことは過ぎ去りましたよ。後はけじめをつけて貰うだけです」
「―――爆破事件、か?」
「………………」
頷きはしない。けれど、裏に近い人間があの大きな事件を知らないわけがないのは分かっていた。
沈黙の意味を正しく受け取ったのだろう、マスターはまた深々と溜息を吐いて、諦めたように笑う。
「情報代は、ちゃんと払えよ」
「えー最近出費がかなり多いんですけど。給料も大幅に下がるだろうし」
「散々貯め込んできた人間が何抜かす。―――それより、」
「何ですか」
「壊れたんなら、携帯ぐらいすぐ買っとけ」
心配するだろうが―――。そう続けられた言葉と、店に入った時の態度とが重なって。
私はそれに、何と答えただろうか。どうしても思い出す事が出来ない。