――――悪夢だ。

 

 

灰色の夢

 

 

単に声を掛けてきたのならそれで良かった。それが皮肉たっぷりの罵声でも私は全く構わない。

いきなり殴りかかってきても別段驚きはしなかっただろう。応戦すれば済むことだし、百歩譲って許してあげても、いい。

 

 

だが考えてもみて欲しい。あの、恭弥が。あの雲雀恭弥が、だ。

 

 

背景に花を咲かせでもしそうな柔らかく華やいだ笑みを浮かべて、……しかも自分から挨拶をしてきたなんて!

 

 

(気持ち悪!つーか、何の罰ゲームだ!)

 

 

『やあ、おはよう』――その言葉だけが脳裏に響き。今は昼だとかそんな突っ込みを入れる余裕もないまま。

 

無意識に、しかしぶっちゃけかなり本気でナイフを投げた私を、一体誰が責められただろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しばしの沈黙が廊下に流れた。不気味なまでの静寂に少し、認めたくはないが動揺が広がる。

 

予想に反して、ナイフをトンファーで叩き落とす音は聞こえてこなかった。

たがどんな理由であろうと、彼は自らを攻撃されれば即反撃に来るような人間である。油断は出来ない。

 

 

――と、その時。身構えた私を嘲笑うかのように、どこからともなく奇妙な笑い声が聞こえてきた。

 

 

(………え?)

 

 

同時にぐらりと視界が歪む。一瞬平衡感覚を失いそうになって私は思わず廊下の壁に手をついた。

目の前に立っている“雲雀恭弥”の姿がまるで陽炎のように揺らめく。一体何が。これは。思考が纏まらない。

 

 

 

「流石、と、言うべきでしょうね。クフフ、一瞬で幻覚と見破るとは――――」

 

 

 

今度ははっきりとした肉声が耳朶を叩いた。音の発生源は……そう、目の前にいる人物からだ。

既に“それ”は雲雀恭弥の形を取っておらず、いつの間にか私の見知らぬ端正な青年に変わっていた。

 

 

 

 

 

幻覚使い。幻術士。確かにそう呼ばれる特殊能力者が存在することは知っていた。

しかしマフィアと関わりのない世界で生きてきた私にとって、名前しか知らぬ遠い存在でもあった。

 

そして今。多分そのカテゴリに当て嵌まるだろう力を持った青年が、私に軽く牙を剥いている。

 

 

何故?―――いや、それ以前に、何か妙なことを言われた気がするんだけど。

 

 

 

「…………はい?」

「それなりの精度で作り上げたつもりだったんですが、ね。良い意味で期待が裏切られましたよ」

「いや、あの」

「ボンゴレが見込んだという、恭弥君の幼馴染―――なるほど、彼が興味を持つだけのことはある」

「……えぇと…」

 

 

 

思わず零れた私の疑問たっぷりの呟きは気にも留めず、青年はただ一人納得して頷いている。

その手には先程私が投げたナイフが握られていた。叩き落とされるまでもなく、あっさりと受け止められていたのだ。

 

だが本当に問題なのはそこじゃない。さっきこの男が言った、“見破った”という台詞。

つまり、あの、力ずくで視界から排除したくなるような似非雲雀恭弥、は。

 

 

(…………幻覚……!)

 

 

私は完全に、頭がいかれた恭弥だとあの瞬間まで信じていた。幼馴染本人だと、疑ってもいなかった。

その姿が余りにも気持ち悪くてナイフを投げてしまっただけで、別に見破ったわけでも何でもない。

 

 

(もし、あのまま、何もしていなかったら―――)

 

 

脳裏に浮かんだ嫌な想像に、じわりと汗が滲む。……こうして相対しているだけでも今すぐ逃げ出したくなるほど。

彼が何を思って私にちょっかいを掛けてきたのかは知らない。だが強いということだけは痛いほどに分かる。

 

幻覚を操る人間、だって?生憎だがそんな人間とやり合ったこともないし寧ろやり合いたくもない!

 

そう思いはするのものの、微かにだが確実に感じる殺気、敵意のようなものを無視することは出来なかった。

 

 

 

「おや、どうかしましたか?……どこか具合でも?」

「……あの、どちら様ですか」

「え、ああ――これは大変失礼しました。僕は、六道骸といいます」

 

 

 

一瞬でも気を抜けば何かを仕掛けられる。そんな予感がして、警戒を解かず名乗った青年を見据える。

それに気付いていないわけではないだろうに、彼は優雅な所作を崩さないまま綺麗にお辞儀をしてみせた。

 

その愛想の良さに先程の恭弥の姿が重なり、思わず全身に鳥肌が立つ。こいつ、何てことをしてくれたんだ…!

 

 

 

「六道骸…さん」

「ええ。恭弥君の永遠のライバルです」

「はっ?」

 

 

 

確かボンゴレの資料でその名前を見たことがあるような気がして、記憶を探ろう――とする前に思考が停止した。

 

永遠のライバル?恭弥の?というかこの口振りだとかなり親しげな関係にあるようにも思える。

しかしあの幼馴染に向かってそんな事を言おうものなら、即座にトンファーが飛んでくるはずなのだが。

 

胡乱気な目つきで見上げると、六道骸という男は少し首を傾げ、今度は薄ら寒い笑みを作った。

 

 

(あ……今朝の、夢………)

 

 

手に持っていた二人分の弁当が床に落ちるのが分かる。分かるが、拾う気さえ起こらない。

 

クフフフ、と何度聞いても奇妙な笑い声を聞きながら―――私は身動き一つ取れず固まっていた。

 

 

 

「本当にお会いした甲斐がありましたよ。……、さん?」

 

 

 

そう、耳元でそっと、囁かれるまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

です』

『?おかしいですね、確か恭弥君は』

です。情報部情報処理部門第五班所属の』

『……………』

『―――訂正してください』

 

 

 

自分の間合いに踏み込まれるまで、その接近に気付かなかった自分が情けない。

気付いたところでどうしようもなかったと言えばそれまでだが、悔しいものは悔しいのである。

 

とりあえず、息がかかる位に距離を詰められても表向き平静を装うことには成功した。

最初から気になっていた名前の修正を求め、相手が折れるまで言い張ったのも良かったのだろう。

 

黒スーツに身を包んだ青年は、苦笑する素振りを見せつつもそれを受け入れてくれた。基本紳士なのかもしれない。

 

 

(……結局、何だったのあの人……)

 

 

床に落ちた弁当が無事なことに安堵しつつ、いつの間にか人通りが戻っている廊下に私はひとり立ち竦んでいた。

現れた時と同様、一瞬の間に消え去ってしまった六道骸。また、いずれ。そんな言葉を残して。

 

出来ることなら正直もう二度と会いたくなかった。雰囲気的に、何だか次は攻撃されそうな気がしてならないからだ。

 

 

 

「幻術とか無理だって……いやでも、恭弥と知り合いらしいし」

 

 

 

六道骸。六道骸。六道――骸。未だ混乱が残る頭で何度も名前を繰り返す。確かにどこかで見たのだ。

 

あれは……前の事件で、計画に組み込まれていたハルの親友が守護者の妹だという話から始まって……

知らないことがありすぎるのを思い知って、ハッカーに協力してもらい新たな情報を手に入れた。

 

私とは違い地位も技術も高い彼の手にかかれば、他の守護者のことも知り放題だった。ボンゴレには、やはり悪いが。

 

 

 

「六道骸…って、ああ!まさか守護者の…一人?」

 

 

 

その隣に違う名前も書いてあったような気がする。ってじゃあ、ボス達と同じ日本組……?

 

 

 

 

 

廊下で立ち止まったままの私に訝しげな視線が突き刺さるのを受け、慌ててハッカーの待つ五班へと歩き出す。

 

この時はまだ、彼が―――“彼ら”がどんな人間なのか。そして何をもたらすのか。私は、少しも知らなかった。

 

 

 

←Back  Next→