あの、今すぐ回れ右して帰りたいんですが。

 

 

灰色の夢

 

 

市販のチョコレートひとつで何故、こんな騒ぎに巻き込まれなければならないのだろうか。

 

それとなく見渡してみても残念ながらこの店は広く、人もまばらで、お菓子売り場には今私達しかいない。

まあ他に誰か居たとしても好き好んで介入してくるとは思えなかった。何より彼らの雰囲気が物語っている。

 

人が誰しも生まれながらに持っている本能が、この二人はどこかおかしいという警鐘を鳴らすからだ。

 

 

(身のこなしも、気配の殺し方も―――何を取ったって一般人ではありえない)

 

 

最も、こちらに対して明確な敵意が感じられない点を考えれば、そこまで警戒する必要はないだろう。

 

ただグレーゾーンにしろマフィアにしろ、“人を殺せる”人間であること。……私にとって、それが一番重要だった。

 

 

 

「あーもう、オレはぜーんぶ欲しいの!だいいち、これ買いに来たんじゃん!」

「だからって……誰彼構わず突っかかるな。もめるのめんどい……」

「らいじょうぶらって!オレがこの女ぶっ殺」

「―――犬」

「……せ、説得すればいいんのら!」

 

 

 

掴まれた右腕はそのままに、犬と呼ばれた青年と新たに現れた青年とが何やら言い合いを始めた。

いい加減離して欲しいと思いつつ、ぶっ殺すと言われるのは二度目だとどうでもいいことを考える。

 

私がここで引いて、どうぞとチョコレートを差し出せば話は早いのだろう。だが、それでは何かに負けた気がする。

 

 

(―――チョコレート、一袋死守。よし)

 

 

二人にちらりと視線をやり、彼らの意識がお互いにしか向いてないことを確認してから私は、痛む左腕をそっと伸ばす。

 

その指が標的に触れた、まさにその瞬間―――同時に右腕を思いっきり身体の外側へと捻る。ほぼ関節技だった。

 

 

 

「ぎゃんっ?!」

「………っ!おまえ、」

「何と言われようと、これは頂きますから!」

 

 

 

引っつかんだチョコレートの袋を手押し車のカゴに放り込み、数歩距離をとった。一切の油断は出来ない。

我ながら何を真面目に言っているのかと思わないでもなかったが、もう引くに引けないところまで来ている。

 

一応『護身術だ』と言い張れるレベルでの反撃にしておいた。後はこの子供のような青年が―――どう出るか、だ。

 

 

 

「……てんめ―…くそ、マジ超ムカつくびょん」

「それは私の台詞です。貴方が先に来たならまだしも、二十一秒遅れておいてその言い草はなんですか」

「ゲ…おまえ、いちいち数えてんの?!キモッ!」

「…………。っとにかく!これは私のものですから、手出さないでくださ―――」

 

 

 

そう言い切る、直前。何とも言えない寒気が襲い、私は咄嗟に手押し車を足で後ろに追いやる。

 

―――それが正解だったと気付くのは、身体の真横で悔しそうな声が響いてからだった。

 

 

 

「あら!っひゃー、まさかオレ失敗?失敗した?」

「犬、下がれ。…こいつ…」

「あーあ。つーかおまえ、本気で喧嘩売ってんの?あんまなめてっと―――」

 

 

 

だから単にチョコレートが欲しいだけで、殺し合いたいわけでも何でもないんですが。

目の前で交わされる物騒な会話を耳にしながらも、私は次にどうすればいいのか決めかねていた。

 

助走も何もない、跳躍。初動さえ気を抜いていれば見逃していた。殺気がなかった分反応が遅れたのもある。

明らかに人間離れしたその速さに、額に少し冷や汗が滲む。……また、左腕がじくりと痛んだ。

 

もしかして、本当に関わらない方が良かったのかもしれない。妙だと思った時点で、逃げていれば良かったのかも。

 

 

(チョコレートごときで、意地になるべきじゃなかった)

 

 

今の動きを見切れたのはひとえに自身の経験からだ。つまり、こちらも素人ではないと言ってしまったようなもの。

 

 

 

「まっいいけど。面白そーじゃん、千種、やっちゃっていいよなー?」

「…………。別に、どうでも」

「良くないですよ!騒ぎは面倒なんじゃなかったんですか?」

「……考えるの、めんどい……」

 

 

 

(いやいやいやいや。思考放棄してどうするんだっての。しかもやるって何をだ!)

 

 

確認するまでもなく、チョコレート強奪未遂犯は少し前とは格段に違って殺る気まんまんな状態で待っている。

その目が爛々と期待に輝いている辺り、かの幼馴染を思い出してしまうのがとても悲しいところだった。

 

闘いたいという欲求が強いのか。―――だとすれば、どこかの殺し屋である可能性はかなり高い。

 

 

 

「女、さっさと表に出るびょん!」

「決闘する気なんか更々ないので、嫌です。それに第一、その間に誰かに買われるかもしれませんよ」

「………じゃーぜんぶ買い占めてから行くびょん」

「だからそもそも一袋くらい譲るとか、そういう考えはないんですか!?」

「んあ?んなのあるわけねーじゃん」

「――――――――」

 

 

 

こいつは壊滅的に頭が悪いのか。それとも何か、このチョコレートによほど深い思い入れでもあるのだろうか。

 

千種と呼ばれた青年は、疲れた様子で近くの柱に寄りかかっている。我関せず、といった風だ。

多分その余裕は、私が何者であったとしても、決してこの青年に敵うはずがないという自信から来ているのだろう。

 

もちろん私にとって―――そう思わせておいた方がいいのは、明らかだったけれども。

 

 

(チョコレート、たかがチョコレート。されどチョコレート)

 

 

ああ何がなんだか、もう笑うしかなかった。事態をどう収拾するのかさえどうでも良くなってくる。

ここまで来てしまったのだ。彼の言う通り商品を買い占めてから表に出て、決闘してもいいかもしれない。

 

 

………勝てるかどうかは未知数だが、………負けるとは絶対に思わないから。

 

 

私がそう投げやりになって密かに決意を固めていると、突然、信じられない言葉が耳に飛び込んできた。

 

 

 

「ぜってーいっこも渡さないびょん。これ、骸さんの大好物らもんね!」

「……………え?」

「女だからって容赦してやんねーし、覚悟するびょん!」

 

 

 

びしりと指を突きつけられても咄嗟に反応が出来なかった。今彼が口にした一言に、全ての意識を奪われていた。

―――骸。そんな珍しい名前がどこにでも転がっているとは思わない。ましてここはイタリアである。

 

 

(まさか………この二人って……)

 

 

黙り込んだのを、怯えたととったのか。勝ち誇った笑みを浮かべ―――ふと、その顔が一瞬で明るいものに変わる。

その視線は私の背後、いや位置的にはスーパーマーケットの入り口に向けられていた。誰か来たのだろうか?

 

つられるように振り向いた瞬間、目に飛び込んできた“その人物”に私は今すぐ背を向けたい衝動に駆られた。

しかし背後にはチョコレート強奪未遂犯とその仲間がいる。走って逃げれば余計立場が悪くなる気が、した。

 

 

 

「おや、君は――――」

 

 

 

やがて距離が近づいて。“その人物”も私を認識してか、わざとらしく目を見開いていく。

ひくりと、口元が引き攣るのが分かる。低く落ち着いた声。私の中に最高に気持ちの悪い記憶を残していった。

 

 

 

「ええと確か……、さん?」

「っ、です!」

 

 

 

今回のは確実に嫌がらせだな。―――そう、思った。

 

 

 

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