ぽつり、ぽつりと―――独り言のように。
灰色の夢
「あいつとは……そうだな。昔馴染みっつーか、まぁ、多少世話してやったっつーか」
懐かしそうに目を細めてDr.シャマルは僅かに苦く笑う。その足元から崩れたコンクリートがからんと小さな音を立てた。
私は指先に込めた力を抜かないよう注意しながら、ゆっくりと、静かに手招きする彼の元へと移動する。
吹き抜ける風は、爆音と相まってか酷く生温く感じた。屋敷が広いからか、まだ戦闘の音は終わる様子を見せない。
「脳障害、だとは思ってる。だがあの時は、手を尽くしても……どうにもならなくてな」
今から会いに行く相手は一体どういう人間なのか。少し前に流された私の質問に漸く答える気になったのだろうか。
シャマルは極力声を抑えながら、しかし私に話すというよりかは独白に近い形で言葉を吐き続ける。
それは取り留めもないただの思い出話のような。あるいは、悔恨にも似た何かが滲む、自嘲のような。
正直、はっきり言って全く答えになっていないのだが―――――まあ百歩譲ってそれはいいとしよう。
「………Dr.シャマル。つかぬことを伺いますが」
掴んでいた部分にひびが入るのを見て、こめかみがひくりと引き攣るのを感じながら、私は問うた。……力一杯。
「いったい何が悲しくて壁に張り付かなきゃいけないんですかっ?!」
「文句言うな。こっからが一番近いんだよ」
「ここ外壁ですよ!下、直で地面ですけど!」
「だったら落ちなきゃいいじゃねーか」
「―――――――」
落とそう。今すぐ蹴り落とそう。決意も新たに姿勢を正した私に何か感じることがあったのかもしれない。
彼は一度瞬きした後、驚くようなスピードで移動を始め、目的のバルコニーにすとんと華麗に着地した。
そして徐に私の方を振り向き、おまけに『さあ、来い』とばかりに手を差し伸べてくるから余計に腹が立つ。
八つ当たり気味にもう一回文句を言ってやろうかと思ったが、体重を預けた壁の取っ掛かりのひびが洒落にならなかった。
私は下品にも舌打ちをひとつ、この野郎と心の中で呟いてさっさとシャマルの後を追う。落ちたら流石に痛そうだ。
(こんな体力の要る……私が情報屋だってこと、忘れてるんじゃないでしょうね)
もちろん、差し出された手には嫌味を込めて全体重をかけてやった。……大したダメージにはならなかったようだが。
黒服の三人組を放置してから今まで、私達は“病院”への道を目指してやってきた。
反省したのか、ただ戦闘が鬱陶しかったのか。あれからのDr.シャマルは目を瞠るほどの活躍を見せた。
“病院”へと唯一繋がる入口へと最短距離を取りつつ、敵に見つかるようなヘマは一度としてしなかった。
その代わりこの外壁などという道ならぬ道や、増築を繰り返したらしい迷路のような屋敷に苦しまされたりしたものの―――――
嬉しいことに私も何度か敵の気配を察することが出来たので、少しは役に立ったと思っておきたい。
やることがないという事実は非常に身の置き所がないというか、あの時は思った以上に空しかった。
「……………っ……!」
どおん、と今度は遠くの方で爆音が聞こえる。即バルコニーから人気のない部屋に入り込み、周囲を窺った。
部屋の中は他と同様、立派な家具が並ぶ豪華なものだ。花瓶ひとつ見るだけでも数十万は下らないだろう。
ここを襲撃した連中はそれを惜しげもなく壊しているのだと思うと、不謹慎にも些か勿体無いような気さえしてくる。
私がそんなことに気を取られている間にも、シャマルは扉の方へ真っ直ぐ歩いていき―――ふと、何かに気付いた様子で戻ってきた。
厳しい顔つきのまま、油断なく周囲に視線を走らせながら。
「なあ。……なんか、おかしくねーか?」
「……はい?まさか、近くに敵が――――」
「ちげーよ。この爆音……まさか別の連中が居やがるなんてことは」
「どういう意味ですか?」
あまりに長く続きすぎていないか。彼はまだ確信を持てない様子で、それでも疑念たっぷりにそう言った。
未だに響き続ける爆音が、ということだろう。しかしまだ生き残っている住人が抵抗しているという可能性は無視できない。
と考えてから、漸く私はここが一般人の住む屋敷だったことに思い当たる。裕福な家ゆえにその事実を失念していた。
(……いや、でも。だからこそ有能なボディガードとか……)
私でさえ一歩遅れを取った相手にここまで渡り合える誰かを、表の世界で生きる人間がそう簡単に雇えるだろうか。
直ぐに疑問が浮かぶが、シャマルと交友があったとはいえマフィアとは関係ないと言い切った言葉が嘘だとは思わない。
だがそれが真実だとしても、マフィアが寝たきりの“病人”を狙って襲ってくる意味がさっぱり分からなかった。
寝たきりの男を殺す―――Dr.シャマルが治療の為に動いたから?ならば目を覚まされるとどう都合が悪いのか。
(一般人の癖に、重大な情報、を……知ってるとか。ま、月並みな話だけど)
近くの壁に凭れて、断続的に響く音に耳を澄ます。人間を殺すだけなら屋敷をいちいち壊す必要は無い。
では何の為に、と思考をめぐらせ―――私は思いついたことを深く考えずに口にしてみた。
「じゃあ、その“病院”への道が分からなくて、片っ端から壊してるとか」
「場所聞き出す前に全員殺したとか、お粗末すぎるだろ」
適当なの捕まえて拷問すりゃ一発じゃねーか。と言下に否定され、二の句を告げられずに黙り込む。
マフィアじゃない、一般人。過保護だったらしい家族ならばまだしも、沢山いただろう使用人達が耐えられる筈もない。
シャマルの言うことに納得させられそうになり、しかし、その必然性が感じられない為に私は反論を続けた。
「別のマフィアと交戦真っ最中、にしてはあの三人、余裕たっぷりだったじゃないですか」
「………そう、なんだよなぁ……あいつらがな……」
「部屋を出た時点で音も響いてきてたし、地下だから聞こえなかったなんてことはないと思いますけど」
争う気はない、と帰るよう促してまで来たのだ。いや、もしかしたら……だからこそ、か?
敵の敵は味方という理論で、他でもないDr.シャマルが交戦相手と手を組むようなことになれば、状況は悪化すると。
内心の動揺を押し隠すくらいなら簡単に出来ただろう。……ボンゴレにもそんな人間は山ほどいる。
ただそうならそうで、別のマフィアとやらが連中を襲う理由も分からない。直接聞き出さない限りは―――きっと。
もっと考えれば仲間割れという線も捨てがたいし、所詮部外者たる私達が考えたところで何も変わりはしないのだ。
「ああもう、新たな襲撃者だろうと何だろうといいじゃないですか。早くその“病院”へ道とやらに」
「何言ってんだ、もう着いただろ」
「は?」
「……ん?言ってなかったか?この部屋の向かいの壁が入り口なんだよ」
「…………………」
シャマルはあっけらかんとそう告げると、床の絨毯をべろりと捲り、僅かにだが色の違う部分を指し示す。
そのまま床板の一部を持ち上げ―――現れた穴には、部屋に全くそぐわない、何かの機械が埋め込まれていた。
見たことのない種類のものだったが、恐らくはこれが、道を封鎖する術だということ。
「ああ、やっぱ閉まってるな。流石にそれは――――」
幾つかのランプが点灯しているのを確認してから、彼は機械には一切触れないまま床板と絨毯を元に戻す。
わざわざ道を開いて、敵を呼ぶこともないと考えているのだろう。ならば敵をある程度排除するのが先か。
それを横目で見ながら、私は静かにその場を離れ、これまた立派な扉の方へと移動する。
これから私が役に立つかどうかはともかく、とりあえずは周囲の状況を確認するため、扉に手を掛けた。
あの時の二の舞はしないと、慎重に慎重を重ねてゆっくりと押し開いた扉の――――丁度真前に落ちていたもの。
見事に真っ二つに折れた銀色の、その、棒状のような、何かこの間左腕に喰らった武器に物凄く似ている、なにか。
「……………すみません、間違えました」
私は、光の如き速さで見なかったことにして扉を閉めた。