治るのか、治らないのか。

 

それを調べることさえ、私にはリスクが大きすぎた。

 

 

 

灰色の夢

 

 

 

ふたつあるうちのひとつを失うこと。それは、思った以上に私に不便を強いた。

失明したと知った直後は、同時に平衡感覚まで失ったかのように真っ直ぐ歩くことさえ困難で。

数値にすれば視野の差など僅かだというのに、私から気力と体力、平常心さえ根こそぎ奪っていった。

 

ただ……順応自体は意外と早かったように思う。その必要性があったから、というのが一番の理由だろうが。

歩く、走る、物を取る、探す、云々。意識して視線を巡らせば、出来ないことなどあまりない。

 

あちこち身体をぶつけて青痣を作っていたのが数ヶ月、通常を装えるようになるまで数年とちょっと。

ある程度ほとぼりが冷めたと判断し、事情を伏せたまま医者に診てもらったが、右目そのものには異常が無かった。

 

 

(だから、異常があるのは、『脳』――――)

 

 

そう、幻術とは、幻覚とは、目ではなく脳に直接働きかけ、作用するもの。

相手の頭の中に無理矢理映像を流し込んで、あり得ないことを現実に起こっていると思い込ませる。

視界一杯に広がる凄惨な光景。私は閉じた瞼の上を掌で覆い、それでも消えない映像にやはり、と思う。

 

 

今。

私の右目は、“見えて”いた。

 

 

正確には見せられていたと言うべきなのだろうか。骸が作り出した幻覚を、私は今、両目で認識している。

普段右目が見えていないのに、幻覚であれば右目が見える。酷い頭痛と、猛烈な吐き気と共に。

 

その事実が何を意味するのか?Dr.シャマルが指摘しようとしていたのは、恐らくそういうことだろう。

脳、脳波、何でもいい。異常が出たのだ。とにかく最新機器を誤魔化せはしなかったということ。

 

私にとってその原因は明白すぎる。けれども、それを言葉にすることは禁忌だった――――生きる為には。

 

 

 

?!君、何して―――」

 

 

 

彷徨っていた思考を引き戻す強い声がして、私は何とか幻覚から意識を逸らして目を開ける。

気絶したのか死んだのか分からない連中が十数名床に倒れ、立っているのは私を見やる恭弥達だけだった。

 

骸の攻撃の邪魔にはならなかったか―――そのことに安堵して、しかし瞬時に身体が強張った。

掛けられた言葉も途中で切れ、こちらを振り向いていた恭弥が、ふと目を眇めると背後へ意識を飛ばした。

無様に崩れ落ちた私にも分かる。たった今この領域に足を踏み入れた、全てにおいて別格な、敵……数は五人。

 

守護者二人を投入してまで、あるいはDr.シャマルに協力を仰いでまでボンゴレが倒したかった連中。

そして、ついさっきこの部屋に綺麗な大穴を開けた力を持つ――――能力者。

 

 

恭弥。私は音もなくそう呟いた。合わせた視線に私に構うなという意味を強く込めて。

今この状態は意図しないものではあったが、最低限、自分の身は自分で守る。守れる。だから。

 

 

 

「――――――――」

 

 

 

恭弥は。私の幼馴染は、ほんの一瞬だけ目を細め、そのまま何を言うこともなく私に背を向け走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

(はは、躊躇いもしないってか)

 

そのことが面映ゆくて、私は薄く笑みを刻んだ。最も、それは直後に沸き上がった吐き気に霧散したけれども。

骸は何か言いた気にこちらを見ていたが、すれ違いざま何かしら吹き込まれたのか、真顔に戻ると武器を構え直す。

 

幻術は確かに私を苦しめている。けれど、攻撃対象だった彼らとは違って、「死」を意識させられることはない。

ただ、ただ、吐きそうに苦しいだけ。頭が、酷く痛いだけ。

ずりずりとなめくじのように身体を引きずって、私は近くにあった家具の陰に身を隠す。

 

一息吐く暇もなく、そこに慌てたような声が降ってきた。しかし相手が相手なので私も特に気負わず応えた。

 

 

 

「おい何があった、幻術……の所為か?死人みてーな面してんぞ」

「はあ、…なんと言いますか、」

 

 

 

何がどうとか説明する気は全く起きなかったので、相性が最悪みたいです、とだけ言ってみる。

そしてその間もやはり震えは止まることなく、歯の根が合わずかちかち音がするのには参った。笑えるくらいに。

 

まあ何はともあれ、私が完全に役立たずになったことは明白で、一刻も早く戦場からどこかへ逃げなければならない。

皆の為にも、自分の為にも。シャマルだって、今は私のことを構ってくれなくともいいのだ。

 

 

 

「すみませ、…戦線離脱しても、いい、ですか」

「……いや、当然そうしろと言いてぇが……」

 

 

 

今この状況でどこへどうやって逃げるというのだ。彼が口籠った後にはそう続いたのだろう。

確かに、遠慮などしてくれそうにない格上の敵に囲まれている以上、他所へ移動するのは簡単ではない。

とはいえいつまでもここに居て、何かしら足手纏いになったとあれば目も当てられないのだ。

それにこの症状が真実、骸の幻覚によるものだとすれば、その有効範囲から抜け出せば体調も良くなる筈である―――理屈からいえば。

 

ここで粘っていても、医者としてのシャマルの意識を引くだけでしかないし、ね。

 

耳慣れた金属音が窓の向こうから聞こえる。ああもう始まってしまった、のんびりしている時間はない。

足腰に力を入れて私は何とか立ち上がる。すると、徐に手が伸びてきてがしりと両肩を掴まれた。あれ、デジャヴ?

 

 

 

「行くなっつってもこいつ聞きゃしねえよな……ならあっちに放り込んだ方がマシか」

「は?あの、聞こえな、いんですけど―――」

「つー訳でおまえはこっちな。大人しくしてろ、よっ!」

「………へ、ぅあっ?!」

 

 

 

ぐるん、と世界が回った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぇ、ま、マジで吐く……」

 

 

 

冷たい床に蹲って、襲い来る波を何度もやり過ごす。吐き気と共に湧き上がるのは、紛れもない怒りだった。

幻覚酔いして苦しんでいる人間を、レディを、あろうことかあのおっさんは普通に投げ飛ばした。

そう、文字通り投げやがったのだ、窓の反対側、開いていた扉の向こうの廊下、その壁に。

 

ぶつかると思われた瞬間、どんな仕掛けか壁の向こうにするりと通り抜けていたのだから驚きだ。

あまりに驚きすぎて受身を取り損ねたのも痛かった。頭はシェイクされるわ身体中痛いわで本当に吐きそうである。

 

 

 

「………割に合わない」

 

 

 

ぼそりと呟いた言葉は、特に反響することもなく壁に吸い込まれるようにして消えていった。

蹲ったままじっとしていると、やがて乱れていた呼吸も落ち着きを取り戻し、頭も幾分冷静になっていく。

ぼやけた視界が元に戻ったところで、私は周囲を見回した。屋敷側とは全く違う雰囲気の場所。

 

骸の幻術はまだ消えていないのだろうか?ノイズが時折混じるものの、未だに右目は見えたままである。

見えているのが創られた映像ではなく『実際の』景色であることの異様さに気付かないまま、私は歩き出した。

 

 

白い空間。広がる静寂。廊下がどこまでも長く長く続いている。

まるで病院のようだ、と思ってから、ああここが例の“病院”か、と思い直した。

あれだけやかましかった戦闘の音は、壁一枚だけだというのに一切聞こえなくなっていた。

 

かつん、かつん。何かに呼ばれるように、私は廊下の奥へ奥へと歩いていく。窓、が、ない。どこにも……。

辛うじて天井隅に通気孔があって、そこで空気を循環させているのだろうか。

 

かつん、かつん。己の足音だけが辺りに響きわたる。目が痛くなるような白さが苦しい。

ここには何らかの事情で眠り続けたままの青年がいるという。家族はどんな思いでこの場所を作ったのだろう。

 

いつかはきっと目が覚めると期待して――――?

 

 

(ああ、…………息が詰まる)

 

 

 

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