扉を開く。もう戻れない。

 

気付かなかったことには――――出来ない。

 

 

 

灰色の夢

 

 

 

この白く長い廊下のどこかに、今回の標的、もとい目的の人物が居るのだという。

Dr.シャマルが私をここに連れて来たがっていたのなら、いっそ今、彼を待たず先に会っておくべきか。

 

安全だと思って私を放り込んだわけだし、ここに敵が侵入することは彼らの敗北と同義。ゆえに可能性は低い。

治療に役立つだ何だ、右目がどうだとか色々言われたものの、結局のところ詳しいことは何も分かっていないのだ。

爆発を避け床に伏せる直前耳に届いた言葉は………どんな意味を持つのだろう。

 

 

(――――――?)

 

 

ふと、足が、止まった。私の左手に表札のない、ひとつの部屋がある。

途中にも部屋はあったような気がするのに、なぜかここが目的地だと確信していた。

 

入り口に掛けられたセキュリティは、ボンゴレのそれとは比べものにならないくらい貧弱だった。

それもその筈、ここは富豪とはいえ表社会の人間が住む場所。そもそも比べる事がおかしい。

けれどなまじボンゴレだの能力者だのとマフィアなどが関わっているから、どこかそれが不思議に感じる。

 

扉にゆっくりと手を伸ばす――――その手が未だに震えていることに、疑問は持たなかった。

 

 

(多分………)

 

 

私は、この先に「入りたくない」のだと、漠然と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

病室。そこは、いわゆる、病室だった。一般の屋敷の中にあるということを除けば、何の変哲も無い。

些か複雑な機械が並ぶ中に、ぽつりと置かれているベッド。やはり窓のない部屋。そこに横たわる―――――青年。

これではまるで幽閉されているようではないか、と頭のどこかで思った。幽閉。いや、事実、そうでしかない。

 

そしてそれよりも何よりも遥かに私の心を突き刺したのは。記憶の海に沈めた過去を深く抉ったのは。

 

 

 

「―――――っ――」

 

 

 

からん。乾いた音を立てて、いつでも抜けるよう構えていたナイフが袖口から落ちた。

瞬きすら出来なかった。呼吸すら忘れた。目にうつる彼は静かに寝ているだけのようだった。

 

頬に血の気は無いものの、ただ穏やかに眠っているだけの。十人に問えば十人ともがそう答えただろう。

その姿は植物状態とはいえ痛ましくもなく、本当に今にも目が覚めそうにも思える。

十数年眠り続けているという事実がなければ。…………だというのに。それ、なのに。

 

 

―――有り得ない。私は凍り付いたかのように、その場に立ち竦む。嘘だ。こんなの、絶対におかしい。

 

 

ああ、いつだって私の勘は正しかった。私はここに立ち入るべきではなかった。

六道骸の情報に引き替えてでも、絶対に来るべきではなかったのだ。この病院に。この、屋敷に。

 

目を閉じると、右目が映す範囲に見間違いようのないノイズ混じりの暗闇が訪れたことに私は、心の底から絶望する。

幻覚ではない、これは、現実だ。紛れもなくそこに存在する、真実だ。

 

 

 

『………諦めてくれ』

 

 

 

無理なんだ。もう、どうにもならない。どうしようもない。そう誰にだって。

 

詰め寄った私に、あいつは目を伏せて苦しそうに、しかし苦しそうに表情を歪めたことを後悔した様子でそう言った。

そう、あいつが言ったのだ。もう二度と目覚めることはないと。ただただ、ゆっくりと死んでいくだけだと。

そもそも生かすつもりのないことだから。初めから殺すつもりで“買った”のだから。そうだ、だから。

 

――――― “だから私は、スイッチを切ったのに” ―――――

 

 

 

「…………ぁ、…っ」

 

 

 

無意識に後ずさると、背中に冷たい壁が触れた。逃げ場などないとでもいうかのように。

私はもの言わぬ青年から目が離せなかった。右目に混ざるノイズはだんだん酷くなり、視界が歪むほどになってきている。

 

原因不明の植物状態?私にはもう、一目見ただけで分かった。分かりきったことだった。

生命維持の為の機器、投与されている薬品の種類、いや違う、もっと根本的なことからも明白すぎる。

それで私と彼が何だって?共通点がある?当然だ。だって“同じ”なんだから。

 

Dr.シャマルの医者としての目はどうやらこんな所まで正確らしい。ただ、私が治療の役に立つとは思わないけど。

そう考えた途端、ひゅ、と喉が嫌な音を立てた。………彼はここに治療に来たと言っていた。

 

 

(シャマルが治療する……治す、だって?)

 

 

閉ざされた部屋は酷く静かだ。電子音さえも聞こえない。僅かな、僅かな、誰のとも知れない呼吸音だけが届く。

 

 

(治る?これが?)

 

 

は、と思わず笑みが零れた。その衝動は次第に大きくなり、私は身体をくの字に折って笑い続ける。

 

彼が治るだって?はは、そんなこと。そうはならない。だって、そうはならなかったんだから。

そうなるなんて、有り得ない。――――だって、そうはならなかったじゃないか!

 

だん、と拳を一度だけ強く壁に叩きつける。思い出したくもないことが次々と目の前に現れては消えていった。

私がこの国に生きている理由、日本に帰れない理由、本名を名乗ることすらできない理由、全てがそこにある。

忘れていたなんてことはない。忘れそうになったことなど一度もない。

 

………けれど、薄れていたのかもしれなかった。恭弥と会って、ハルと会って、ボスとやり合ううちに、自然と。

あるいはそれよりももっと前から?いや、いつだって警戒して生きてきた自負がある。

 

 

考えろ。私は自分に強く言い聞かせる。考えろ。いつだってそうやって生き抜いてきたのだから。

この男性は、十数年もの間ずっと意識が戻らず、治療法もないとされてきた。シャマルが一度は諦めたくらいだ。

殆どの人間が諦めていた筈。そして今、久々に彼が治療に乗り出し―――現れた連中の目的は、全てを排除すること。

起きられては困る、と彼らは言った。焦りからか、恐らくは失言したのだろうと思う。

 

では彼が目覚めることで起こるのは何か?単純に考えれば、過去彼の身に起こったことが露呈すること。

そしてそれと私の身に起こったことが同じなら、その事実を隠蔽しようとする奴らは、………私の敵。

しかも余程性質の悪い方の。情報を求める側ではなく、本来その情報を握っている側の連中だ。

 

 

 

いつかは必ず私の命を脅かす。ならば、手遅れになる前に彼らを殺し、ファミリーごと潰さなければ。

それが出来ないのなら、ボンゴレから、――――――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

右目のノイズは少しずつ酷くなる。しかしそれに反比例するかのように、頭痛は少しずつ減っていった。

あれからどれ程の時間が経ったのか、恭弥達は今どうしているのか。ここからは窺うことは出来ない。

とても静かだった。私の心を支配している、荒れ狂うような衝動とは裏腹に、何も変わらないまま。

 

 

(どうして、……どうして、こんなところ、で)

 

 

こんなにも早く、恐れていたことが起きる。ハルのことも、情報部のことも、何もかもこれからだというのに。

人は誰しも過去からは逃げられないのだという。最初から逃げることしか選ばなかった私は、尚更のこと。

予定に無かった依頼、仕組まれた襲撃。巻き込まれた愚かな情報屋は、誰の掌の上で踊っているのだろう?

 

泣きたい。私は年甲斐もなく、本気でそう思った。

周囲を憚らずに泣き喚いてしまいたい。そして自分は正しいのだと、正しかったと叫びたい。

 

昏々と眠り続ける男性。あれは、かつての私に酷く似ている。そして―――そして。

 

 

 

「      」

 

 

 

………彼の姿は、私の両親そのものだった。そう、私が、二度と目覚めないからといって見捨てた―――――。

 

 

 

いつの間にかポケットから落ちていた携帯が、音もなく震えもせず光だけで着信を知らせている。

普段なら着信前に知るそれを全く気付かず、それがハルからのものであることも知らず。

 

私は無様に膝をついて、ただ、呆然と十数年も意識が戻らない青年をじっと見つめていた。

 

 

 

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