光がそこにあったとして、それが穢れないよう守ることにさして重要な意味はない。
……守りたいと願うことはあっても。
灰色の夢
「さて、と」
走り去る車を何となく見送ってから、私は目的の方角へ歩き出した。少し眠ったおかげかやけに頭がすっきりしている。
誰がどこで見ているか分からない以上、ハルの家まで『雲雀恭弥』と共に移動するのは如何なものか――――
眠いまでもそんな意識があったせいか、近所まで来ると自然と目が覚めた。見慣れた景色を確認し、降ろして貰ったのだ。
脳裏に渦巻く様々なことを今は頭の隅に押しやって保留して、とにかくハルのことを考える。
時間ができたら、という言葉とその響きに、緊急性はないと判断して家に帰ることを優先した。
恭弥達の前で無駄に騒いで、万が一ボスなどの耳に入ろうものならまた厄介なことになる。
久しく会っていない若きボンゴレを思い描きながら私は携帯を取り出し、ハルのそれに掛けてみた。
……今のこの時間なら、もう家に帰っているだろうか。それにしても本当に何があったんだろう?
薄暗い街を道行く人とすれ違いながら私は進む。…………。…………。
「……………?」
出ない。というより以前に、繋がらない。耳に流れ込んでくる機械音声に動揺して私は立ち止まる。
どういうことだろう、まさか彼女の身に何かあって、携帯を壊されたとでも?いや待て、まだ結論を出すのは早い。
残されたメッセージの様子からして、誰かに襲われている、もしくは追われているといった危機感は全くなかった。
ハルはそもそも声や表情に全部出るきらいがあるので、この推察は間違ってはいないと思う。
私へと言葉を紡いだ彼女の声は酷く静かだった。まるで感情そのものをどこかに置いてきてしまったような―――。
(そう、だからこそ、『ボンゴレ』には伏せた)
ただ単純に充電が切れただけかもしれない。……と、そこまで考えて、私は戦慄を覚えた。
ハルが居るのが家やボンゴレであったなら、充電が切れるなどということはあり得ない。
まして私からの連絡を待っているとあれば尚更だった。それに気付かない彼女ではないだろう。
あるいは事故で携帯を壊してしまったとしても、律儀なハルのことだ、その旨別の電話から連絡をくれるに違いない。
それがないということは、つまり今彼女は充電も連絡も出来ない場所に居て、且つ、何らかの理由でそこから移動出来ないでいる。
物理的に―――?しかし拘束されているとは思えない。ならば怪我を?声から苦痛は読み取れなかった。
どう動くのが最善か、瞬時に答えが出せなかった。兎にも角にも、このままでは家に向かっても会えない可能性が高すぎる。
一応家のそれにも電話を掛けて、応答がないことを確認してから私は近くの路地裏にするりと入り込んだ。
ハルの所在を知るために。……人目を避けられさえすればそれで良かった。
あの事件があってから、私達はハッカーを含めて、お互い自分が今どこに居るのかを知らせる機械を持つことにした。
当然知らせたい時にしか使わなくていいようには言っている。それぞれ本当に知りたい緊急時にしか確認しないとも強く約束して、だ。
ただ、ほんの少しでも危険だと思えば必ず―――仕事で外出する時になど―――スイッチを入れようと話し合って決めた。
私は迷うことなくその機械を手に取り、位置情報を携帯で読み出し、地図を表示させる。
数秒すらもどかしく焦りが湧く。そうして僅かな電子音と共に示された場所は、とても奇妙な場所だった。
「…………ここ、は……」
奇妙な―――と言うのは、私のようなタイプの情報屋ならともかく、ハルが好んで行くような所ではないということである。
もっとはっきり言ってしまえば、“マフィアが暗黙の了解で近づかない”場所、だった。
イタリアに広がる地下街のように、いわゆるグレーゾーンと呼ばれる地域。不可侵の、ある意味隔離された。
仕事で行くなんて通常どころか、非常事態でさえも彼女の地位ではあり得ない――――ならば、何の為に?
(以前地下道の話をした時、他の場所についても説明はしてた。でも、だからこそ近づかないと思ったのに)
状況が全く想像できなかった。それほどにマフィア側とグレーゾーンとの線引きは明瞭で、
マフィア“らしい”格好をしていただけで追い返されるような場所である。
しかし、そこにハルが居るのだ。私は自分の格好を見下ろして、着替える必要はないと判断する。
あまりに見た目が一般人すぎると目を付けられる可能性はあるが、顔見知りがいない訳ではない。
いざとなればの手段なら山ほどあった。――――早く彼女の無事を確認したい。
私は踵を返して、頭に叩き込んだ地下の地図から、一番近い入り口という名の廃棄マンホールへと向かった。
酒に煙草、香水。その他色々なものが混ざった、胸糞が悪くなるほど甘ったるい匂いが充満するその一角。
懐かしさはあってもあまり良い思い出のないそこは、私が最初に来た時から何も変わっていない。
表にも裏にも行けない中途半端な連中が集まる、辛うじて秩序を保つ街。いつ瓦解してもおかしくない微妙なバランス。
………私は例の精神科医が居る地下街の方が好きだった。今は重傷でない限り立ち入り禁止ではあるが。
すれ違いざまに声を掛けてくる酔っぱらいには意識も向けず、目的の場所へ急ぐ。
陽気な音楽が流れ、比較的賑やかな街の隅にあるその建物は廃棄されているのか、損傷が激しく人気がなかった。
一歩、足を踏み入れる。ありとあらゆる可能性を考えて音は立てず、両目を閉じて、気配を探り、見つける。
だが気配の殺し方もあまり得意ではないだろうハルの、それでも一瞬見落としそうになる位脆弱なそれに驚いた。
二階東側。頭に閃くと同時に私は駆け出した。他の人間がいないだろうことも、その時には分かっていたから。
酷く、酷く甘ったるい匂いに侵されていたのだろう。私は、その光景を直接目にするまで、それに気付かなかった。
あるいはもしかしたら、愚かにもそんなことはあり得ないと頭のどこかで思っていたのかもしれない。
けれど常に冷静であるようにと長年努めてきた思考回路は、いつも通り能力を発揮して状況を瞬時に理解した。
理解――――した、のだ。
探していたハルはそこに居た。うずくまるように座り込み、俯いている。耳に届く呼吸音は規則正しい。
床に置かれた携帯は傷一つなく、多分充電が切れただけなのだろう。暗い画面からは何も伝わってはこないが。
彼女が纏っているのは普段のスーツではなく、少しカジュアルなものだった。
ここに入るためにそうしたのか、………もしくは、部屋の中央で胸か血を流し仰向けに横たわっている男に請われたのか。
(即死――か―――)
至近距離から心臓を一発で撃ち抜かれているようだった。見開かれた瞳は、特に何の表情もなく、……光もない。
彼は、初めて見る顔だった。近くには箱ごと握りつぶされた煙草が落ちている。横倒しになった古ぼけた椅子。
まき散らされた資料の白さが、目に痛い。それでも、それらを争った形跡と言うには少し弱かった。
この男の手には何も握られてはいないし、近くに凶器になるようなものも見受けられない。
ハルの、……胸元で手が白くなるほどきつく握られた拳銃以外、は。
「―――――。……、さん……?」
「ハル、遅くなってごめん。ちょっとこっちでも色々あって、直ぐに気付けなくて―――」
「……いえ、いいんです。私の方も、……休暇だって知ってたのに、突然連絡しちゃって―――すみませんでした」
私の口から滑り落ちる言葉は、単調な響きを纏う。押し殺さなければならないほどの衝動も、ない。
ハルの声はメッセージの時と同じでやはり酷く静かでどこか乾いている。視線は合わない。彼女は動かない。
そう、なのだろう、と思った。彼女がいつものように駆け寄ってこないこと、笑顔を見せてくれないこと。
男とハル双方共に乱れていない衣服と髪、この部屋の状況、握られた一丁の拳銃、それらが物語るように。
恐らくは私に電話を掛けてきた時点で、終わっていたのだ。………全てが。取り返しようもなく。
「……ん、で、」
「――――――――」
「どうして、………さん、が、泣くんですか……っ」
「………………え?」
何を言ってるんだろう、この子は。私は思わず首を傾げた。