羨ましいとは思わなかった。
―――ただ、違うのだ、と。
灰色の夢
少し痩けた頬。血の気の引いたその青白さは、触れてもいないのに冷えた温度を私に伝える。
あの仕事を終えてから、三週間と、数日。ハルが平静を装うことが出来たのはそれだけだった。
それは長いのだろうか。短いのだろうか。………多分、どちらでもいいような気がした。
私がハルの見舞いに行くことを許されたのは、山本からその知らせを受けた後、ゆうに二日が経ってからだった。
意識が戻るまではと面会の許可が下りなかったのである。つまりハルは丸二日間も寝込んでいた。
強い疲労と極度のストレスによるもの――――当然、原因は推し量るまでもない。
結局ハルは、私に何も言わなかった。保存しておいた死体を使ったかどうかも、最終的に認められたかどうかさえ。
……私も敢えて調べなかったから同じだろうか。今回はハッカーに頼む気さえ起こらなかった。
私は何も知ってはならないのだ――――地位の差ゆえに。それはハルの為であり、私達の為でもある。
(…………ハル)
やつれた顔をしていても言葉は掛けられずにいた自分。私が食事を作ることでしか負担を減らせなかった。
仕事中に、彼女は倒れたという。突然だとは思わなかった。日を経るごとに翳りを帯びていった姿を私はずっと見ていたから。
ハルが、倒れた―――。何故かその事実が私に重く圧し掛かる。そして思ってしまった、―――私とは違う、と。
最初に出会った時からずっと感じていたことだというのに、この感情は一体どうしたことだろう。
三浦ハルという人間は、ボンゴレの中でさえ「一般人」に近い感性と理性と、………弱さを持っていた。
だから、なんて馬鹿げたことを言うつもりはない。私だって確かにあの時は「一般人」でしかなかったのだ。
私達はどうしてこんなにも違うのだろう。私は一ヶ月どころか何年もの間、己の犯した罪と向き合うことが出来なかったというのに。
誰かを殺した時点で“人”としての道から外れているのだとしても、彼女はまだまともな人間だと思ってしまう。
倒れるほど悩んだのだ。倒れるほど考え続けたのだ。――――その、罪を。
痛々しい彼女の姿を見ていると、胸が苦しくなってくる。…………まさかこれは嫉妬だろうか。
仕事を投げ出してくる訳にもいかないので、とっぷりと日が沈んでから元部下ということで特別に彼女の病室に入れて貰った。
中に入ってみると、ハルは少し青白い顔で静かに寝息を立てていた。起こさないよう側の椅子に座る。
――――闖入者にも気付かず眠り続ける彼女の寝顔を眺めながら、私はゆっくりと目を閉じた。
ハルはあの青年を殺したくはなかったのだろう。ハッカーのように仲間に引き込めたらと願ったのかもしれない。
私がもし今も彼女と共に居たら、その一歩後ろに居られたら、どうしただろう。
……ハルと話し合わずに彼を殺しただろうか?私はきっと躊躇わない。躊躇うような人間ではない。
けれど爆破事件を経験した私だったら単独行動なんてせずに、ハルと共に行動することを選んだ筈だ。
話し合って、……その青年の意志を無視して力ずくにでも無理矢理洗脳まがいに押し切って、こちら側に引きずり込んだだろうか。
そのもしもが容易に想像できてしまい、思わず乾いた笑いがこぼれた。
起こり得たことではあったが、もう決して起こることはない過去。ハルはひとりで全てを選択し、私は何も選べずにここに居る。
ハルが眠っていることにただただ安堵を覚えている自分が、酷く情けなかった。
ああ、私は何を言う為に彼女に会いに来たのだろう。起きていたらどんな言葉を掛けたのか。
単に見舞いに来なければ、周囲――――ボスを含めた幹部連中――――に不審を抱かせるからか?
私はさっきからずっと手の中で弄んでいる携帯を、音がするほど握りしめた。
三週間。この事に関して、……早い、とは思わなかった。そして遅いとも思わない。
彼女が倒れてから初めて調査をしたのだとすれば、また話は別だったが。
私はあの日以降、完全にハルがこなした“仕事”に対して無関心を貫き、無知であることを受け入れた。
心配だから、気になるからと叫ぶ頭を押さえ込んで。何が出来ないかと差し伸べてしまいそうになった、手も。
ただ、あの屋敷で恭弥達には「ハルに呼ばれた」から会いに行くと宣言してしまっている以上、いずれ私に話が来るのは分かっていた。
ハルが、人を殺した。正当防衛でも何でもない、ただの“仕事”で。それを知った彼らはどう思っただろう。
青天の霹靂?寝耳に水?天地がひっくり返ってもあり得ない話?……どうだか。
今回。爆破事件の報告書を出した時とは違って、電話ではなく、正式な「文書」としてそれは私の元へ届けられた。
丁度正午ぐらいだったと思う。昼休みの少し前。
至極真面目に仕事をしていた私が班長に呼ばれデスクへ出向いてみると、全く心当たりのない一通の封筒を差し出され。
疑問に思いつつ席に戻ってひっそりと封を開けたその中身は――――。
(……何も、分かってない)
怒りとか、苛立ちとか、そんなもの湧いてすら来なかった。何事もなかったかのようにその後を過ごせた。
何と言えばいいのだろう、とにかく、一切の感情が動かなかった、のだ。
強いて言うなら、諦観のような―――――まるで何もかもが静止してしまったかのように。
沢田綱吉。
もう一度、私にその台詞を掛けるつもりなのか。……これは酷いよ、と。私に何もかもを押しつけるつもりなのか。
白い白い、どこまでも白い紙に、たった数行。けれどそれは抗えない絶対命令として私に下されたもの。
指定された場所は執務室ではなかった。私が足を踏み入れたことのない一角の、奥まったところにある部屋。
一人でいて欲しい、そう強く思う。私はもう、自分がどんな醜態を晒してしまうか分からなかった。
炎が燃え広がる。広く広く、取り返しのつかないほど、もう終わりなのだと知らしめるように。
仲間が任務に失敗したのは分かっていた。そして、―――切り捨てられたのだということも。
「 」
もう、この組織はここで終わるのだ。ボスは死に、内部分裂を起こし、殺し合い、そして後には廃墟だけが残る。
―――いや。瞳に昏い光を宿した男は、鬱々と嗤った。
長年慣れ親しんだ組織の研究所が、轟々たる音を立てて赤い炎に飲み込まれていくのが見える。
あそこに閉じ込められたまま死んでいった連中は数多い。しかし、…………自分達は違う。
「隊長、準備が整いました」
「ああ―――分かった。一時間後に出発する」
「了解です」
生き残ったのは男を含めた能力者たった十二名。忌々しい研究者共が消えて清々したが、やはり少ない。
これではいくら能力を有していると言えど、軽々しく行動するわけにはいかなくなった。
ボンゴレファミリーの横槍を受け、増援と入れ替わる形で逃げ帰ってきた連中の話から色々分かったことがある。
奴らの組織に存在する守護者二人と今回の標的とが共闘して、こちらの精鋭部隊を全滅させたという。
……そうだ。横槍さえ入らなければ、任務は失敗しなかった。
説得など始めから重点を置いてはいない。例の患者さえこちらの手に落ちれば―――それで良かったのだ。
(ボンゴレさえ、いなければ)
目の前で踊り続ける赤い焔が、報復をと叫ぶ。復讐を。同じ痛みを。死を。それすら上回る絶望を。
そして守護者、などという連中と真正面からやり合うなど、こちらの特色を考えても些か分が悪い。………だから。
男は嗤う。静かに。己の全てとも言える組織が滅んでいく様を背に、己と同じ憎しみの色を宿した仲間と共に。
「我が組織の名誉にかけて、ボンゴレファミリーを、潰す」
―――――そして。
「………貴様もだ、Dr.シャマル」
毒々しい悪意が込められた言葉は、夕闇に溶けて消えた。