鏡を見てみればいい。
そこに映る自分がどんな表情をしているか、ねえ、分かってる?
灰色の夢
何を思っているのか、口を噤み、ただ私を見ているだけのボスに向かって一歩、踏み出す。
以前と違うのは、それ以上は決して近付かなかったこと。
私はあの時のように彼に近づいたりはしないし、無造作に襟首を掴んだりはしない。それは線引きだった。
彼女が―――ハルが、あの日そうすると決意して、言葉通り実行したように。
彼はボンゴレ十代目ボスで、私は情報部情報処理部門第五班の一班員に過ぎないのだから。
「どうして、そうやって怒るんですか」
「……、さん?」
「どうして、そうやって私を責めるような目で見るんですか。
どうしてこの件で私を責めることが出来るんですか、――――他でもない、貴方が」
全てを始めたのは貴方だったくせに。ほぼ吐息だけで呟いたそれは、小さな部屋、逃げ場などなく彼の元へと届く。
……もうこの時点では分かっていた。気が付いていた。ボス、ではない、沢田綱吉の瞳の奥底に潜むひとつの感情に。
最初から―――この部屋に入った時から、彼はボスではなかった。『沢田綱吉』ただ一個人として私と対峙している。
この場でボスがボスとして存在していたのなら、私は、彼の言葉に反論するべきではなかっただろう。
だから私は近付かないまでも、言葉を紡ぎ続けるのだ。多少の口調の荒さには目を瞑って。
沢田綱吉。彼が生きるその世界に、あの日三浦ハルが堕ちていったのだとすれば、それは。
「そもそも、与えたのは貴方でしょう」
漆黒に光る、命を奪う為だけに作られた武器を。彼女の力だけでは絶対に手に入れられなかった。
イタリアに来る為の最低条件だと言って、容易く誰かの命を奪うことが出来る拳銃に手を伸ばさせたのは誰だ。
「そして使い方を教えたのは貴方の家庭教師だった。
そう、その点から考えるなら、――――私は安全装置を外してしまったかもしれない」
手を差し伸べたのは多分、私の方が先だった。出会う前からハルが痛いほどに手を伸ばし続けていたのだとしても。
それは決して私に伸ばされたものではなく、それは決して、届くことを考えたものでもなくて。
声をかけて、立ち上がらせて、手を引いて歩き出した。今ではもうその手は離れて彼女はひとり進み始めてしまっている。
頑張ろう、とか、一緒に、とか、どこか生温い言葉を掛けて……恐らく私は、数年のうちに彼女が忘れてかけていただろう
拳銃の存在を再び思い知らせてしまったのだと思う。それを罪だと誰かが言うのなら、受け入れる。―――でも。
「でも、……引き金をひいたのは他でもない、彼女自身です」
今回の事件で、何も知り得なかった―――それが嘘ではないことを彼は理解している―――私を責めるのならば。
そもそもの発端であり、元凶であり、全ての鍵を握る『沢田綱吉』もまた、責められねばならない筈。
そして責められる側の彼がこうして私を責めるなど、本末転倒、そんな権利などありはしない。
「そこに罪があるのなら!それは彼女が背負うべきものであって、貴方が奪って良いものじゃない!」
貴方がどんなに否定したところで、それは変わらない―――。そう言うと、彼は虚を突かれたように目を見開いた。
ハルは、これからも苦しむだろう。悲しむだろう。悔やむこともあるかもしれない。
かつて彼が、彼らが、そうだったかもしれないように。今も尚、そうであるかもしれないように。
……と、まあ、そこまでは私の想定どおりの反応だった。だが、しかし。
突如、沢田綱吉は不穏な光を宿らせすっと目を細めると、あろうことかこうほざきやがったのである。
「君は、……ハルに呼ばれた」
「――――――」
はい?と、素っ頓狂な声を出しそうになり、私は意識して口元を引き締めた。今、こいつ、何を言った?
「さんは、……ハルに呼ばれたじゃないか」
だから何だと反射的に心の中で呟く。彼が何を言いたいのか何を伝えたいのか、全く意味不明で……。………。
すると、ふと。自分でも何故そう思ったのか分からないくらい、自然と、私は言葉に出来ない何かを理解した。
「………ハルは、」
駄目だ。違うとか、そんな次元ではない。たとえそれが本心でなかったにせよ、それは本当に駄目だった。
私は、その瞬間だけは頭が完全に真っ白になった――――情けなくも後になって何を口走ったか覚えていないほど。
「ハルは、私が殺せといったら殺す人間なんですか」
ぽつり。零れた言葉は乾き切って、まるで機械のように、あらゆる感情の残滓すら読み取れない。
ぽたり。零れた雫は怒りによるものか、悲しみによるものか、それともあるいは同情だったのかもしれない。
「ハルは!人を殺すよう言われたら、それに従って簡単に誰かの命を奪うことが出来る人間なんですか!」
「……………あ、」
己の放った言葉が何を意味していたのか。口元に手をやり、我に返って再び呆然とする青年を、私はきっと心底責めきれないでいる。
けれどもそれとは別に湧き上がる激情は無視できないほどに大きくて、静かに、ただ深く深く息を吸った。
最初から最後まで八つ当たり染みていた私達のやり取りは、他人からはどう見えていたのだろう。
「いいですか?私が気に食わないのなら、今すぐクビにすればいいじゃないですか!どうぞご自由に!
ボンゴレを辞めても、今の地位なら特に殺されたりしませんよね?まあ別にそれでも逃げる自信はありますから?
情報屋に戻って今まで通りマフィアと関わらずに暮らしていくだけです、何も変わりませんし受け入れますよ」
あ、その場合退職金はしっかり頂きますけど。ひとり頷きつつ、それでも視線は合わさないようあらぬ方向へ。
ここが潮時なのだと経験が告げていた。けじめとして作った線引きを守る、守れる、もうぎりぎりの所まで来ている。
お互いの立ち位置や意識は全く違っていて、どちらも今はどうしても譲歩出来ないでいる状態だから。
「とにかく、こうやって何もかも私に押しつけられるのは飽き飽きしました。知っててこうですからやってられない。
いつだってボスは何もしないで、事が起こってからその周辺を責めるだけ!ああ、さぞ楽でしょうね!」
「…………っ……」
「それともボスだから毎日忙しくて、下々の事情にいちいち首を突っ込む暇もありませんか?
は、それなら最初から最後まで黙ってたらどうですか!そうやって中途半端に口を出すから状況が悪化するんです」
たとえば、たとえばの話。
もし正当防衛だったり、誰かを守る為だったのなら、彼はこんなにも心揺れることはなかったんじゃないか、と思う。
いつもならばやらないだろう失言をここまで繰り返す……そんな彼を揺らすその感情は決して悲しみや苦しみだけではないだろう。
底の見えない蜂蜜色を覗き込めば自ずと見えてくる、この場には余りにも不釣合いな、それ。
「黙認するなら黙認する、結局手を出すなら最初から、……泣かれようが喚かれようが、傷つけたって!
――――三浦ハルをイタリアに連れてくるべきじゃなかったんでしょう!」
この、平和とは程遠い薄汚れた世界の中。ハルが―――人を、殺してしまって。その両手を赤く染めてしまって。
その明るくどこまでも澄んでいた瞳に、今まで決して存在しなかった「闇」を、宿らせたこと。
「さん、それは……!」
「今回、私は貴方と同じでしたね。何も知らず、何も知らされず、気付いたのは全てが終わってから!違うと言えば
その直後に頼られたかどうかだけ。ハルからの連絡が欲しかったんですか?助けて欲しいと言われたかったんですか?
……でも無理ですよ、ボス。立場があまりにも違うから、貴方には何も理解できない」
(伸ばされ続けた手を長い間、見ない振りをしてきたくせに。拒絶もせずにただ、気付かない振りをし続けたくせに)
「ただそこから見ているだけの貴方には、絶対に分からない!」
―――――喜ばなかったなんて、言わせない。