私は、今もまだ逃げ続けている。

 

 

 

灰色の夢

 

 

 

「――――

 

 

 

密やかな。けれど鈴を転がすような綺麗な声は今も耳に残っていて、覚えのあるそれに私はぴたりと足を止めた。

昂ぶる感情を抑えるのに必死だったとはいえ、存在に気付かなかったわけではない。ただ、眼中になかっただけだ。

 

一度しか会ったことのない彼女が私にわざわざ声を掛けてくるなんて、思いもしなかったから。

 

 

 

「……えっ、と。クローム?」

 

 

 

恐らくは同年代、多くてもひとつかふたつしか違わないだろうのに、どこか少女を思わせる儚げな彼女は

私のその呼びかけに小さく頷きこちらに走り寄ってきた。どこか気遣わしげな態度。……何なのだろう。

 

 

 

「やっと、会えた」

「……ってことは、私に何か用があったの?」

「うん。ハルが、呼んでた、から」

「―――ハルが?」

 

 

 

探してた。そう言って微笑むクロームの様子には特に含んだものもなく、何故あの時彼女と例の忌々しい幻術使いとを

一緒くたにしてしまったのだろう、と疑問に思うほどである。うん、アレは特殊だ。アレが変なだけだ、きっと。

 

そんな風に嫌な思い出を反芻していると、彼女がおもむろにがしりと私の片腕をホールドしてきた。

 

 

 

「今から、大丈夫?」

「え、えぇ、特に予定はな―――」

 

 

 

そのまま強引に引っ張られた瞬間、くらりと頭の芯が痺れる……ような錯覚に言葉が途切れる。

触れられたところから広がる、奇妙な感覚―――。六道骸のものとはまた違う。あんなに攻撃的なものではない。

思わず脱力してしまいそうな、……深い眠りに落ちてしまいそうな、甘い甘い痺れ。

 

(彼女が今幻覚を使っているような様子はない、のに……?)

 

 

 

「あなたを、呼んでたの」

 

 

 

けれど私を現実に引き戻すのは捕まれた腕の痛み。儚げで線の細い彼女にしてはその力の強さがとても意外で、

私はとっさに振り払おうとしてしまった自分を抑え、促されるまま素直に足を踏み出した。

 

痺れは命に関わるようなものではなく、慣れればなんとかなりそうだという楽観的な結論を出してもいたので。

 

 

 

 

 

 

そう、あの日、ハルはクロームを含む「友人」達と会っていたのだろう。そして珍しくも自身を失くすまで飲み、

酔っぱらって送られてきたのだ。あんな風にお酒に逃げたのは、次の日のことを考えてのこと、だろうな。……でも。

ちらりと横目でクロームを窺うものの、眼帯に隠されてかあまり感情が読みとれない。

 

まあ、ハルの友人……なのだから悪い人間ではないと思いたかった。六道骸はそもそも除外、論外、だったが。

 

 

 

 

 

 

 

病室に広がる薬の匂いに目が覚める思いだった。断続的に私を襲っていた軽い痺れは部屋に入って手を離されるまで続き、

不快、とまではいかなかったが思考能力が著しく低下しているだろうことがとても不安だった。

 

私は二三度頭を振って、前回とは違い、ベッドの上で身を起こしている我が上司へと向き直った。

 

 

 

、さん……?」

「おはようハル。目、覚めた?」

「はい……。あ、一度お見舞いにきてくれたって先生に聞きました。ありがとうございます」

「ん。なかなか許可が下りなくって、遅くなったんだけどね」

「来てくれただけで嬉しいです。……あの、また呼びつけちゃったみたいになって……その、」

「そもそも嫌なら来ないわよ」

「――――はい。………」

 

 

 

ぷつり、切れる会話。彼女の姿―――恐らくは心労で仕事中に倒れたこと―――が間違っているだとか正しいだとか、

そんなこと、私には言えない。言う資格がない。それ以前に、どちらの答えも選べない。たとえ彼女がそう問うてきたとしても。

 

今回、私に何も語らなかったハルが今になって私を呼んだという。あの日そうしたように?……私には分からない。

 

 

 

「――――夢を、見ていました」

「………夢?」

「はい。……眠っている間、ずっと」

 

 

 

内緒話をするかのような、吐息混じりの声だった。溜息にも似た。クロームは入り口のそばで黙って立っている。

出ていって欲しいなんて身勝手なことをふと、思った。どうしてか、この先の会話を聞かれたくないような。

 

 

 

「あのひとが、―――出てきて。私に言うんです。マフィアなんかやめろって」

 

 

 

マフィアなんか止めちまえ。選べないのなら。選ぶことを拒むのなら。

 

それはどっちつかずのハルへの嫌味のようであったし、反面、どこか励ましのようにも取れた。

それにしても随分と残酷で優しい夢だ。聞きようによっては、それがきっかけだったのではとさえ思える。

銃を持ちながらも説得を選び、最後の最後まで迷い続けていたハルの背中をそっと押した―――。

 

 

 

「何度も何度も、繰り返し……。目が覚めてもずっと、その声が耳から離れないんです」

「ハル、……―――」

 

 

 

(……ハルはマフィアであることをやめられない)

 

やめられる筈がない。綱吉への感情を抜きにしても、もう遅い。

あのパーティ会場爆破事件で三人が殺される前だったのなら、あるいは可能性があったかもしれないけれども。

 

 

 

「―――さんも、そうでしたか?」

 

 

 

意識を過去へと向けていた私は。その静かな問いかけに、びくり、と肩が跳ねるのを止められなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初の、罪。初めての人殺し。ハルにとってそれはほんの少し前に起こったこと。

私……情報屋『Xi』ではなくという存在にとっては、十年以上も前のこと。

 

今でも鮮やかに思い出せるあの感覚。スイッチひとつ――――数十人の命を預かっていた、シンプルな装置。

ただそれを押すだけで良かった。鍵もついていないカバーは常に開いており、誰でもそれに触ることが出来た。

警備がなっていない?多分、あの場所に出入りできる者は誰もそれに触れようとは思わなかったのだ。

 

金のなる木なのだから。己のファミリーが何でもってその地位を保っているか、心底分かっていただろう。

そして、……たとえ事故が起こったところで、幾らでも替えのきく道具だとしか認識していなかった。

 

実験は既に終わっていて、私達はただ「それ」を量産する為の「材料」―――――。

 

 

(私が、どう、だったか?)

 

 

ハルはきっとフィオリスタファミリーのことを言っている。壊滅させたのは私だと知っているから。

でも私の初めての罪は既にその一時間前に犯してしまった。スイッチひとつを、この右手の人差し指で押したことで。

搾取されるままただ永遠に眠り続ける両親達を、その生命維持装置の電源を、………私が切った。私が、殺した。

 

その時、もしくはそれから後。家族を殺してしまった私がどう思っていたか?

 

 

 

「正直、ね。……正直、はっきり言って―――私は、それどころじゃなかった、し」

「…………、さん?」

「考える暇もなかったというか、生きるだけで精一杯だったっていうか。薄情だけど。うん、それが本音」

 

 

 

ここで誤魔化すのは、逃げるのは、多分彼女を傷つける。言葉を紡ぐと何とか口角を引き上げ私はハルに笑いかけた。

しかし私と彼女は違うのだ。殺したという自覚を、いつまでもいつまでも持てなかった私に何を語る権利がある?

 

今になってさえ、あれは仕方がなかった行為だと思ってしまうのだから救いようがない。でも、……そう、だから。

 

 

(だからこそ、………Dr.シャマルに協力したくはない)

 

 

自分の症状に悪影響があるとか色々理由を付けて彼の要求を跳ね除けたのは、―――恐れていたからだ。

 

 

 

医者として名声高い彼の手によって、両親と同じ症状で眠るあの患者が、本当に救われるかもしれないという僅かな可能性を。

 

 

 

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