指先が優しい。優しさが痛い。

 

痛みは私の心を抉り、けれど、その傷口から血が流れることはなかった。

 

 

 

灰色の夢

 

 

 

一般的に、血液が目に入っても失明することはありえない。医学的にも、経験的にも、その点に関しては心配していなかった。

血しぶきの勢いが良かっただけなのか、痛みはすぐに消える。きちんと洗い流しさえすればちゃんと元通りになるだろう。

 

いつだって、そうだった。流石にこの歳になって返り血が目に入る……なんて愚行を犯すことは

殆どなくなっているが、昔はそうじゃない。敵に囲まれている状態でこんな危機に陥ったこともある。

それらを何とか乗り切ってきたからこそ今の私がここに存在しているのであって―――そう、だから、

 

本当は、なにひとつ危惧するようなことはない筈だった。 

 

 

(………っ……)

 

 

しかし実際の私はといえば、足元が覚束ない、膝が震える、左目を押さえた手をどけることもできないという

随分滑稽な姿を晒している。一歩でも動いてしまえばその場にうずくまってしまいそうで、立ち竦むしかない。

 

私は―――なに、を、して。(……い、)早く、血が固まる前に洗い流さなくては。(こわい、)そもそもここは

どこだったか、立っている場所は?周囲の地形はどうだった?それ以前に敵はどこだ、私はまだ戦闘中で、

 

 

 

、大丈夫か?!……っ目ぇ見せろ!」

「ぃっ?!」

 

 

 

突然のことだった。左目を押さえている、つまり誰かさんによる怪我が治りきっていない左腕を遠慮なくがしりと掴まれ、

私は思わず顔を歪めた。びくりと大袈裟に肩が跳ねる。油断、していた。気付かなかったのが悪いと笑われそうな失態である。

 

 

 

「ああ……お前が怪我してるわけじゃねーんだな。ん、大丈夫だ。血なんざ綺麗なもんだし、洗い流しゃそれでいい」

 

 

 

いいから座れと促す動きは慣れたもので、視界が塞がれた状態でも不安は感じなかった。

左腕は取られたまま。どろりとした感触が嫌で、私はそっと瞼を閉じた。

 

大丈夫か。――もう大丈夫だ。繰り返し男は言う。闇の中で響く声は「優しさ」と「労り」に満ちていた。

こめかみに触れる指先の冷たさがどうしてか胸を抉る。こんなこと、大したことじゃないのに。

血が入った程度でそんな……まるで重病人であるかのような扱いだ。

 

 

 

「心配すんな。ちゃんと元通り見えるようになる」

 

 

 

大丈夫だ。繰り返し、繰り返し。ああ、この男は私を既に患者として見ている。

……いつから?あるいは、……ずっと?見えるようになるとは、“どっち”の話?

 

 

 

「―――

 

 

 

いっそ泣けばいいのかと投げやりな気分になる。いつの間に私はこんなに弱くなった。

そんなことしても治療への協力は約束できない、とか、そんなひねくれた言葉は音になる前に消える。

 

彼は、治してしまうのだろうか。あの眠り続ける患者を。いつかの、両親をも。

本当に治してしまうかもしれない……それがたまらなく怖かった。だって、だったら、あの日私がしたことは―――

治らないと言われ信じてそして、見捨てた(殺した)―――ぐっと喉が詰まり、目頭が熱くなるのを止められない。

 

 

 

「こんなもんか……ああ、もういいぞ、。あと三十分でいいからそれはつけてろ。ないとは思うが

ファミリーがファミリーだからな、万が一妙な細菌でもいたら事だ」

 

 

 

三十分経ったらもう一度診てやる。どこまでも、どこまでも優しい声。やめてと叫びそうになって私は

(恐らく目の前に居るだろう)Dr.シャマルから顔を背けた。感傷に浸っている場合じゃないと今頃になって思い出す。

 

確か彼だけではなく山本や、恭弥もここに来ていた筈だと気配を探り――。

 

 

 

「………か、った……」

 

 

ぼそり。右斜め後ろから響いてきた、声。……恨めしげ、な?

 

 

「おま、え。……っシャマルの、――ごほっ、こ、恋人、だろ!」

 

 

 

いつの間にかしんと静まり返っていた空き地には、咳混じりで聞き取り辛い声でもいやに、やけに、大きく響いた。

山本でも恭弥でも、ましてやシャマルでもない男の声。つられて座ったままそちらに顔を戻した私は、

情けないことに耳に入った言葉が頭に浸透するまでに数秒を要した。こいびと。……こいびと?

 

 

 

「っだ、」

 

 

理解。と同時に、かっと頭に血が昇り。

 

 

 

「―――っれが、こんなむさいおっさんと!!」

「ぎゃあ!」

「酷ぇ!」

 

 

 

右手に握ったままだったナイフを、声が響いてくる方向へと思い切り投げてやった――。日頃の訓練の賜物だろう。

凶器がぎりぎり、元凶の首の皮一枚を掠めたところで刺さっていたのを私は知る由もない。ないが、

ゾンビ男の切羽詰まった悲鳴と地面に何かが刺さる音で大体いいところに当たったなと自画自賛しつつ、

新たなナイフを取り出してソレに備えた。……何故なら、このゾンビ男。

 

さっき確実に、正確に、頸動脈を切り裂かれた筈なのである。やった張本人が言うのだから間違いはない。

それにも関わらず――見えないのでよく分からないが、苦しみつつも生きているようだった。

というか喉をやられていながら喋れるとはどういうことだ。

 

 

(……いや、わかってるけど、ね)

 

 

自分でも彼らとやり合いながら思ったではないか。「不老不死」などというおぞましくもくだらない研究をしている

ファミリーがいる、と。傷の治りが異様に早いだとか、致命傷でも数分で塞がるだとか。

 

嗚呼、なんて気持ちの悪い。私は何とも言えない気持ちを抱えたまま、

 

 

 

「―――訂正してください、ええ即刻!」

「……そ、うやって、焦る、トコが怪し――ぐはぁっ!」

 

 

 

暫しの現実逃避に身を委ねた。

 

 

 

 

 

 

 

 

―――まあ、わかりきったことながら、そんなことが長く続くわけもなく。

状況がよく分からないなりに危機が去ったことを肌で感じていた私は、悠長に八つ当たりという名の的当てに勤しんでいた。

 

恐らく音からして一本も当たっていない。私の腕がいいのか、ゾンビ男が瀕死にも関わらず頑張っているのか。

どちらでもいい。どうでも、いい。私が奴の喉を裂いた瞬間を目撃した筈なのにシャマルその他が何も言わないところを見ると、

……そういうファミリーだと知っていたのだろう。ボンゴレから仕掛けたようなものだから当然、か。

 

 

 

「―――――

 

 

背を向けた。それは、逃避以外の何物でもなく。

近づく気配を……慣れた気配を、私は素知らぬふりで受け流し続ける。

 

 

「……

 

 

 

私は応えないし振り向かない。ただ手の中の武器を弄ぶ――早く三十分経てばいいのにと思いながら。

 

こんな状況でまだしらばくれるのかって?だって弱点だし。弱い私の更に弱いところだし。

そうぺらぺら喋ることじゃないと思う。たとえそれが、私の幼馴染である“雲雀恭弥”であっても。

 

 

 


「…………」

 

 

 

三度名を呼ばれて初めて、これはおかしいと私は思った。ここまであからさまに無視しているというのに、あの

雲雀恭弥が殴りかかってこないのは変じゃないだろうか。私は今上半身真っ赤に染まっているが、その全てが

返り血であると彼にも分かっているはず。凶器を手に握り込み、意識をゾンビ男から外してみる。

 

私を呼ぶ恭弥の声はとても静かだった。苛立ちや怒気すらない。しかしどこか硬質な響きを持って―――。

 

 

 

「   」

「 、え?」

 

 

 

何かを呟いた、恭弥の息遣いが思ったより近くに感じてはっと顔を上げる、その顎を、がっと掴まれて無理矢理

九十度以上振り向かされた痛みに、悲鳴に似た声が出た。

 

 

 

「ちょ、痛い痛いって痛いから!」

「……………」

「、だか、ら、」

 

 

 

シャマルと違って強い力の込められた指。顔が完全に固定されて息がしにくい。

 

そのままぐいっと力任せに上向けられて内心、ひ、と悲鳴が上がる。ってかシャマルはどこに行った!

患者が無体を働かれているんだから助けろ、じゃなきゃ山本でもいいから!と念じても状況は何も変わらない。

悲しいことに。

 

 

 

「君、さ」

 

 

 

驚くほど近くから降る声。そうでなくても、空気から伝わる熱が現実を伝えてくる。これは、まずい。

何がなんだか分からないけど凄くまずい。逃れようとしたのを察知したのかどうか、ぎり、と指の力が強くなる。

 

くそ。両目が見えない以上、何もかもが露呈する気がして武器を振り回すのは得策じゃないと投げるだけに

止めていたが―――。ええいままよ、と柄を握った右手にそっと力を込めた、その瞬間。

 

 

 

「ぅ、えええ?!」

(ちょ、こいつやっぱりエスパーですかっ?!)

 

 

 

がきりと耳障りな金属音がして、ナイフを握った「右手ごと」、十中八九あの漆黒のトンファーによって

地面に縫い止められた。例の仕込み鉤だろうか、皮膚に刺さっていないだけありがたいと思わなければ

ならないのかもしれない。……とか、いや分かってるあれもこれもそれもどれも逃避でしかないってね!

 

ああもう、何がしたいんだ雲雀恭弥!

 

 

 

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