いつか、いつかは。“その日”が来たら。
そんな言葉を繰り返してどれくらいの時間が経っただろう。
覚悟を決めたつもりでも、いざ目の前にそれを差し出されたら、ほら。
『―――逃げられないよ』
誰かが、嗤う。
灰色の夢
ここ数時間を『なかったこと』にするとどうなるのか――?
私を人質にしようと襲撃した事実はなくなり、後にはゾンビ男が仲間を連れてボンゴレへ取引を持ちかけたという結果だけが残る。
報告のためか姿を消していた山本とたった今到着した六道骸にとっては、寝耳に水のことだったに違いない。
しかしそこはそれ、彼らとてマフィア。マフィアの幹部。ただの戦闘馬鹿ではない。場を読むことに慣れ切っているのだ。
筋が通っていなかろうとも、ここで肯かなければ話が進まないことをいち早く理解してくれた。
(ま、多分融通の利かないあの恭弥がそう主張したってことが大きい、かもね)
ゾンビ男の言う、取引とは何か。そしてそれを受け入れるか否かはこれから恭弥達が話を聞いて決めることだが、
相手の目的がはっきりした分、かなり空気は和らいだように思う。話し合いができる雰囲気になってきた。
それでもゾンビ男以外が拘束されたままなのは―――念の為、というよりは、未だに戦意を失っていない男が約一名、
子供を背負いながらこちらを睨み付けているからだ。そう、他の誰でもない私を、である。
この状況でまだ人質を諦める様子を見せていないのは……一体どういう心境なのだろう。本気で馬鹿なのかあの男は。
いまひとつ釈然としないものを抱えつつ、私は沈黙を守りながら時が過ぎるのを待っている。
この取引とやらが終われば私をボンゴレ本部、もといボスの所へ連れて行くというのはもう決定事項らしい。
逃げる気力がないのはもちろんのこと、リアルに体力がごりごり削られている現状では大人しくしている以外に選択肢はなかった。
唯一できる抵抗といえば……真剣な顔で向き合うゾンビ男とボンゴレ幹部連中とDr.シャマルから、完全に背を向けることくらいか。
興味ありません聞きたくありませんというポーズである。
そう、ポーズ。つまるところ、この距離では耳を塞がない限り会話は筒抜けで全く意味はないのだが。
「君の目的と、取引材料。簡潔に言いなよ。余計なことを喋ったら咬み殺す」
「あまり時間を掛けてはいられませんしね、手短にお願いしますよ」
「あ、ああ。わかっ……―――わかり、ました」
脅しじみた恭弥達の催促に応えるゾンビ男の声は恐怖よりも困惑に満ちている。
殊勝に口調を丁寧に変えたことにも滲む真剣さからして、どうやら話が早く、上手く進んでいることに戸惑いを覚えるようだった。
ボンゴレ――というより恭弥と六道骸――側からすれば、怒れるボスにこれ以上火種を与えないためにも、
取引でも何でも早々に終わらせてしまいたいのが本音なのだろう。無視してしまわないのはただ単純に、優位性が彼らにあるから。
もしかすると大御所ファミリーとしての体面を保つ意味もあるかもしれない。
―――深く、深く息を吸う音が聞こえる。
「………『彼女』を、ボンゴレファミリーで保護してほしい」
恭弥の要求通り、ゾンビ男の紡いだそれは非常に簡潔な言葉だった。けれども私はどういう意味なのか直ぐにはわからなかった。
いや、え?『彼女』って誰。
今日が初対面な相手に代名詞を使うなんてこと、当の本人がその場に居ない限り不親切極まりない……って、え?
「『彼女』、というのは……まさか、そこの?」
「ああ。あのちまっこいのを頼みたい」
え、まさか女の子だったの、あの子泣き爺?!消去法で答えを出した私は、失礼だと分かっていても心底驚いてしまった。
だってかの幼子は、本当に一見少年にしか思えないのだ。
短髪だし服装も明らかに男物だし、言われて改めて横目で観察してみても、少女だとはとてもとても……。
全体的に痩せていて少女特有の柔らかさが全く感じられない所為だろうか。よくわからない。
そんなことをつらつら勝手に考えていると、丁度少女が居る辺りから怒声が飛んできた。
「っ待て、お前は何を言って―――!」
叫んでいるのは、ゾンビ男が「きょうだい」だと言った隊長さまである。
「まあまあ隊長。チビの為なんですって」
「……あいつらに連れてかれるよりは、うん、……マシ、じゃないかな」
「―――っ……」
上げる気勢は中々のものだが、拘束された状態では―――その、少々格好が付かない。
おまけに仲間に宥められる始末とくればいっそ哀れにうつった。痛いところを突かれたのか隊長はそのまま黙り込んでしまう。
と、ゾンビ男はそれを見計らったようなタイミングで再び口を開いた。背を向けているので彼の表情は見えない。
「あいつの保護と引き換えに、俺達の組織を裏で支配していた連中の情報を渡す用意がある」
「っ、なんだと?!」
「屋敷の襲撃も、ボンゴレへの報復も、そいつらが直接指示したことだ。……内部抗争に見せかけて俺達のファミリーを潰したのも」
ちょ、内部抗争なんて聞いてない!と、密かに目を見開いたのは自分だけのようで、シャマルが声を上げた以外周囲は静かなものだった。
屋敷の件に深く関わらないようにと身を引いたから当然のことだが、それでも衝撃は消えない。
彼らは捨て駒で、そもそもの黒幕が別に存在するってこと?嫌味なほど覚えのありすぎる展開だった。流行ってんのそれ!
内心混乱する私を他所に話はどんどん進んでいく。
「ああ、やはり――――」
「どうもおかしいとは思ってたけど、ね。見事してやられたわけだ」
「ったく、そりゃ何も出て来ねぇ筈だよなぁ。……で?どうするつもりだ、お前ら」
「……なあ、何にしてもさ。とりあえずツナにもっかい報告しねーと」
「そうですね。どこの誰だか知りませんが、大きく動いたのは確かです。体勢を整えられる前にこちらから……」
嘘かどうかはボスが判断する。状況を考えれば整合性はある。云々、云々。男共の声が頭の中で反響している。
事態がなんだか嫌な様相を呈してきた。一介の情報屋が、あるいは情報部の一構成員が首を突っ込める範囲をとうに超えている。分かっている。
ああでも、ああでも、気になるに決まっているじゃあないか。
……うん。屋敷の件に関してだけ言うなら私にだって関係があるんだからこれは仕入れてもいい情報だろうそうだそうに違いない。
半ば無理矢理こじつけた私の結論は、結果として、間違ってはいなかった。―――間違っては、いなかった、けれど。
「―――その取引、受けるよ。ただし少しでも虚偽が混じったら、君達はもちろん保護対象の命も一切保障しないけど」
「俺達だけ生かして貰おうなんざ思ってない。あいつが無事なら、それでいい」
「………。その辺りの詳細は後ほどお聞きしますよ。『彼女』のこともね」
わざわざ危険を冒してまでボンゴレの保護を求める理由はなんなのか。何から守るのか。事情全てを知って尚本当に頷けるのか。
加えて、今現在もしつこいくらいこちらを睨んでいる隊長の情熱はどこから来るのか。……疑問は尽きない。
しかしそれらを全部後回しにして―――。
「手始めに、まずその組織の名前を教えてもらいましょう。マフィア――ですか?」
「ファミリーの名を冠しているから、恐らくは。ただ……かなり、特殊な組織だと思う」
組織の名。それひとつを掠め取って、私は耳を塞ごう。調べることは情報屋の領分だ。
その調査がマフィア側からすれば拙いものでも構わなかった。好奇心は身を滅ぼすから、ちゃんと身を弁えなければ。
胸元で組んでいた腕を解く。耳を澄ませて、そして、そうして。
「―――『フリツォーネ・ファミリー』―――」
音が、落ちた。
吐くかと思った。……絶叫するかと、思った。実際の私はただ呆然と目を見開き硬直しているだけだったが。
私が彼らから背を向けたのはこの為だったのだろうか。本能で、悟っていたのか。……そんなの、笑い話にもならない。
ゾンビ男が口から零した単語の羅列は、私の記憶の奥深くに強く強く刻まれたもののひとつだった。
核心に至るものではない。けれど、正直に言ってしまえばあのフィオリスタ・ファミリーよりも性質が悪い組織。
そうとも。人の命を簡単に塵屑のように扱う、反吐が出る胸糞悪い連中のこと。
(『フリツォーネ』……!)
会ったことはない。関わったことも、ない。されど忌避すべきもの。決して触れてはならぬもの。
正面切って相対でもしてみろ、私の全てを懸けてもまず間違いなく死ぬ。そういう相手、だというのに。
“それ”と、ボンゴレが、―――敵対する、だって? ここまできて友好路線に転ずる筈もないからこれはまず確定的な事実!
「俺の知っていることを全て話す。だから、あいつを守ってくれ……!」
ゾンビ男の悲愴な声が体をすり抜けていく。切実な声音。そこに嘘の響きはない。
少年にしか見えない少女に危険が迫っているのは真実なのだろう。それでもその時の私には、そんなこと。
(はや、く。早くはやくはやくはやく)
―――どうでも、良かったんだ。
過去からは逃げられない。それは私の後ろに必ずついてまわるもの。
これが私の『復讐』の結果なのだとしたら――――。
(………ボンゴレから、出て行かなければ)
道は既に。ここに。